1 / 1

去る季節

 寒くも暑くもない。コートを着ると少し暑いけど、制服だけだとまだ肌寒い。桜の花が咲くにはまだまだ遠いけれど、丸裸だった木々には少しずつつぼみが付き始める。  半端な気温に半端な景色の半端な季節。  移り変わり始めた半端な季節の中、その日はきた。まだ進めていない僕の心を無視して。  吹奏楽部の音を聴きながら卒業生よりも一足先に体育館へ入る。吹奏楽部も演奏というよりは準備中なのかそれぞれが好き勝手に吹いている。  各クラス、部活動の代表で来ている在校生がすべて席へ着くと、壇上に音楽の先生が上がった。広い体育館に乾いた音が鳴り渡ると、在校生の声と吹奏楽部の音が消え、一瞬で静寂が訪れた。 「それでは、はじめます」  全員起立の号令に座っていた生徒が勢いよく立つ。  事前に説明のあった通り、卒業生入場までの時間に歌の最終練習が行われる。さっきまでバラバラだった吹奏楽部の音は、1つの曲を奏でだす。それに合わせて代表の在校生、先生たちも歌い始める。  歌の練習の間に卒業生の保護者も入ってきた。少しずつ歌以外の騒がしさが増してきたころ、練習は終わりとなった。  練習が終わると卒業生入場の10分前には必ず席についておくようにと言われ、一時解散となった。ちらほらと席を離れる人も見えるが、多くは座ったまま身体を動かしているくらいだ。それにならって僕も両手を上にまっすぐ伸ばし身体をほぐす。首を回すと小さく音が鳴る。  1月末の卒業式のクラス代表を決める際、希望する人はいないかと言われ、気づけば手を挙げていた。わざわざ面倒くさい式典に出たがる変わり者は他にはおらず、無事1人は僕に決まった。その後くじで2人目の代表者に選ばれてしまったクラスメイトに、なんであんな面倒なものに出たがるのかと不思議そうに聞かれた。 「僕さ、なんて答えたっけ」  首を90度右に向け、あの時質問してきたクラスメイトに声をかけた。 「え、何の話」  求めていたものは返ってこない。僕の心の内など知る由もない右隣の友人に、ただただ不思議そうな顔をされただけだった。  自分で希望しておいたくせに今さら面倒な気持ちになっている。だからはっきりと答えを示してほしかった。ちゃんと僕がここに座っておく意味を持たせてほしかった。  本当は、こんな大事なことを他人に求めようとしていることが間違いなのだ。 「卒業生入場」  教頭先生の落ち着いた声のあと、静かに演奏は始まった。  担任の先生に続いて、いつもはついていない赤い花を胸元に付けた卒業生が入場してくる。最後のクラスまで疲れずに続けられるよう、手加減をして拍手をする。  後半のクラスは僕の横にできた通路を歩く。少しだけ大きめに手をたたいた。  少し疲れてきた最後のクラス。ぼんやりとまた少しだけ力を抜いた拍手をしていると見覚えのある顔が飛び込んでくる。部活にも委員会にも入っていない僕が唯一ちゃんと知っている先輩。  赤い花をつけて前を向いて堂々と歩く先輩は普段よりも大人っぽく見えた。  一瞬僕の中で時が止まった。なぜ面倒くさい卒業式に参加しているのかを思い出す。勝手にやめていた拍手を慌てて再開すると、吹奏楽部の演奏も大きくなった。最後のクラスも全員椅子の前に立つ。卒業生、代表の在校生、先生、来賓、保護者、すべての関係者がようやく体育館にすべて集まった。  今日1番の静寂の中、一同起立の声が体育館中に響き渡った。  式中、1つの後ろ姿ばかりを眺めていた。時々視界の隅で揺れる肩が見えたが、僕の眺める後ろ姿は少しのぶれもなくただまっすぐ前を向いていた。式の終わりごろ、鼻をすする音や小さな嗚咽が聞こえてきた。それでもやはり、僕が眺める後ろ姿は変わらずまっすぐ前を向いていた。  同じようにただ一点だけを見ていた僕も、特に何の感情もないまま式を終えた。少しだけこの式に出られてよかったという気持ちだけを持って。  あちこちから鼻のすする音が止まない中、教頭先生の一同起立が体育館中に響いた。  吹奏楽部の演奏は華やかで明るいものへ変わった。初めに退場するクラスが掛け声のあと、担任の先生への感謝の言葉を叫んだ。それを合図に担任の先生がお辞儀をし、クラス中が壊れたように涙を流し、それでも笑顔で退場を始めた。  入場よりもにぎやかで楽しそうで、だからこそ名残惜しそうに各クラス退場していく。にぎやかで楽しそうな列とは反対に、空席の方が多くなってきた体育館の卒業生は余計寂しそうに見える。  時間のかかった卒業生退場もこれで最後のクラスになる。今までのクラスと同様に担任の先生への感謝の言葉が叫ばれると、疲れているはずなのに拍手はより一層大きくなった。  今日初めて真正面から先輩の顔を見た。涙の痕もない静かな目元。いつもより大人っぽく見えた横顔や、少しだけ頼もしく見えた後ろ姿とは違って、どこか安心してほっとしているような顔。その顔を見て急に、いつか先輩の口から漏れた、早く卒業したいという言葉を思い出した。  最後のクラスの最後の生徒が出るまで大きな拍手は鳴り響いた。  最後の生徒が出ると少しずつ拍手は小さくなり、吹奏楽部の演奏だけが残った。演奏もすべて終わると、体育館に静寂が訪れる。どこからともなく拍手が聞こえ、吹奏楽部の先生がお辞儀をするまで鳴り響いた。 「来てたんだ」  体育館の片づけと代表者の集合が終わると解散となった。部活代表の生徒やクラス代表でも部活に入っている生徒は慌てて3年生の集まる方へ向かって行ったが、そのどちらにも当てはまらない僕はのんびり体育館を出て荷物を持ち外へ出た。  どこからか聞こえた声がまさか自分にかけられているものだと気づくのにしばらくかかった。 「先輩」  声をかけられているのが自分だとわかったときから相手は先輩だろうと気づいていた。たくさん人が集まっている場所に見向きもしないあたり、先輩ももう帰るのだろう。 「もしかしてクラス代表か何か」 「そうです」 「面倒くさそうなのに、物好き」  なんだか久しぶりに先輩と話をした気がする。まだ3年生が自由登校になる前は、昼休みは毎日のように会っていた。待ち合わせをしているわけでも約束をしているわけでもないのに、いつも決まった場所で昼休みに会う。教室が、学校が嫌いな先輩と僕が避難する場所。授業をさぼる勇気も、学校に来ないという選択肢を取る勇気もなかった僕らが唯一手に入れた学内での落ち着ける場所。 「卒業おめでとうございます」  深く頭を下げてお辞儀をする。頭の上からありがとう、と柔らかい声が聞こえた。  その柔らかな声は、まだじっと立っているだけでは肌寒い中に春の暖かさを垣間見たようだった。 「帰りますか」  特に中身のある会話をしたわけではないが十分満足したときその言葉を口にした。ここで先輩と別れると今後は会えないだろうという予感はあった。 「先輩、好きです」  僕の言葉で、物の入っている気配の感じないかばんを持ち直していた先輩が動きを止めた。  止まった時を動かすように風が吹いた。さっきまでもしていて、気にならなかったはずの周りのにぎやかな声が急に耳に入ってくる。動きを止めていた先輩が乱れた髪を整えた。 「うん、聞いた」  何の感情もない顔でまっすぐと僕の方だけを見つめて。この空間にはもう僕と先輩しかいなかった。 「言いましたね」 「うん」  まだ3年生が自由登校になる前、毎日のように先輩と話をしていたころ。それがどんな日だったのか、どうして口にしたのか、何を考えていたのかはもう覚えていない。たぶんぽろりと出て、返事を聞くこともなく今日久しぶりに先輩と話をした。 「忘れたのかと思った」 「忘れてました」  素直に口にすると今度はいつものように笑った。どこか、だれかに何かに遠慮するように声を出さずに笑った。 「ごめんね」 「いいえ」  あまり申し訳なさそうではない先輩に少しも気にせず返す。一言ずつの淡々としたやりとりは、ただのものの貸し借りのようだ。僕はこうなることを知っていたから忘れていたんだろうか。 「今度こそ、帰りましょうか」  再びそういうと先輩が大きく頷いた。その後ろで青春時代を華やかに過ごしていた人たちが大きく飛び上がったのが見えた。  僕の視線に気づいたのか先輩も後ろを振り返る。にぎやかなその空間は僕にも先輩にも縁のないもの。 「自分も含めてこの場所が嫌いなんだ」  いつかも聞いた先輩のその言葉。僕も同じだ。  だけど、自分も含めて嫌いなこの場所で唯一見つけた特別が先輩だった。 先輩の嫌いの中に僕は含まれているんですか。返ってくるはずのない問いを自分の中だけで呟く。 「ばいばい」 「さようなら」  少しの名残惜しさも感じさせない。小さく僕に手を振ると髪をなびかせながら振り返り歩きだした。  きっともう一生会うことはない。  輝かしいはずの青春に溶け込めなかった僕らだけの奇妙な空間。  先輩が小さくなって消えるまでその場に立って後ろ姿を眺め続けた。この場所を嫌いな先輩の最後を見届けたかった。見たくもない青春の輝きを見せられながら、嫌いなこの場所に出てきて、面倒くさい式典に参加した理由。きっとほとんどの人の記憶に残らない先輩の最後を僕だけは知っておきたかったからだ。 「さようなら」  もう一生会うことのない特別な人。                                              END

ともだちにシェアしよう!