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ソーダライトの朝
微睡の中でぼんやり感じていた、火照るくらい高い体温が遠のく。
空いたスペースへ寝返りを打ち、布団をかき寄せると、ひんやりと冷たい空気に頬を撫でられる。
ピッ、エアコンのスイッチが入る音、ゆっくり遠のくスリッパの音、ドアの閉まる音、洗面所の水音。束の間の静寂の後、またスリッパの足音がドアの向こうを横切って、五分か、十分経ったか、やがてふんわりと鼻腔に届くのはコーヒーのにおいだ。
再びドアが開き、彼が戻ってくる。
サイドテーブルにマグカップを置くと、程よく暖まってきた部屋で惜しげもなく素肌を晒し、グンゼの肌着の上にワイシャツを羽織る。今朝の曇天を切り取ったようなグレイのペンシルストライプは、彼に良く似合ってると思う。
カツン、サイドテーブルにカフスとタイピンを転がして、まずは左腕を上げ、親指と人差し指でくいっとカフスを押し込んで嵌める。
青くくすんだソーダライトのさりげなさもまた、彼によく似合う。特別な日でなくてもカフスやタイピンを欠かさないところが、遊び人風でもあり奇妙に品行方正な印象でもある、不思議な人だった。
彼がカフスを留める仕草が好きだ。
朝、この寝室で、パジャマからスーツに着替える時にしか見られない一瞬のシーン。彼と朝を迎えた――彼と一夜を共にした人間にしか見ることのできないシーンは、今、自分だけのものだから。
右腕のカフスを嵌め終えた彼が、ふっと笑う。
「なあ、いつまで寝たふりしてるの?」
布団の隙間から覗き見していたことには、最初から気付いていたのだろう。
大股でこちらへ歩み寄ると、ギシ、スプリングを大きく鳴らしてベッドの縁へ腰かける。下着と靴下だけの無防備な下半身、筋肉の張り出した太腿に手を伸ばすと、交差するようにソーダライトの青が近づき、大きな手に頭を撫でられた。
「おはよ」
「……おはよ」
「お前もコーヒー飲む?」
「まだいいや」
「保温してあるから」
「ありがと」
彼は鷹揚に頷いて、しかしすぐには離れず、僕の髪や頬を悪戯にくすぐる。僕はその感触にしばらくうっとり目を瞑り、ゆっくり彼の顔を見上げた。
「ねえ……」
「ん?」
「俺、ここにいていいの?」
「いいよ。なんで?」
意を決した問いに、微塵も動揺のない答え。彼はいつでも明朗だ。
「こないだの合コン」
「お前にもちゃんと説明しただろ、接待みたいなもんだって。『門限』だって守ったし」
そう、証券会社の本社勤務の女性達との合コンを幹事としてそつなくこなし、約束の時間までに帰り、交換したIDも僕の目の前で見せてくれて、この話はおしまいだって笑って僕を抱いた。
「向こうに、本部長のお嬢さん、いたんでしょ」
「なに、あいつから聞いたの?」
「うん。その人とね、徹也、お似合いだったって……」
同席した先輩の邪気のない笑みが浮かぶ。
一週間胸にしまい続けていたけれど。たった一週間で耐えられなくなった。溢れたのは言葉だけでなく、気持ちだけでもなく――
「バカだな」
目の縁から盛り上がった生ぬるい涙を、徹也の長い指が拭う。
つうんと痛む鼻を啜って、唇を噛む。嗚咽になりそうな息を呑みこもうとしても、次々に隙間から零れていく。
「俺、お前のことこんなに好きなのにな」
「俺だって……」
「俺たちこんなに、両想いなのにな」
「うん、ごめん……」
「謝らなくていい」
大きな影がかかる。それから、ベッドにぎゅっと押しつけられ、抱きしめられる。新陳代謝のよい彼の肌は、シャツを通しても熱いくらいだ。
「ねえ、皺になるよ」
「いいよ、んなこと」
「……てつや、すき」
「うん。俺も」
その日彼は早朝会議に少しだけ遅刻して、僕は久々に眼鏡をかけて出社した。
終わり
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