36 / 59
第3章 俺とタロの未来 1 尻尾が裂けた
キャンバスに淡いピンク色の絵の具を乗せていく。
元橋さんに依頼された桜並木を描いた絵は、もうすぐ完成する。
結局、絵の中の人間のタロは、これまでのシリーズと同じように子供の姿(もちろん犬耳と尻尾はない)にした。
その代わりに、この絵を描き終わったら、同じ構図で人間のタロを大人にしたものを描いて、うちに飾ろうかと考えている。
タロと恋人同士になってから、毎日がとても満ち足りていて、俺の頭の中はまさにこの絵のようにピンク色だ。
けれどもその中にほんの少しだけ、黒い影がある。
当たり前のことだけれど、犬の寿命は人間よりもずっと短い。
ネットで調べてみたら、柴犬の寿命は12〜15才くらいらしい。
タロはまだ1才くらいだから、まだまだ先のことのように思えるが、14年先というと俺はまだ40才手前で、それから先ずっとタロのいない一人きりの人生を送ることになるのかと思うと、むしょうに寂しくなる。
今まで付き合った恋人とはこんなふうにいつ別れるとか――まして死に別れることなんか、考えたこともなかった。
けれどもタロとは一生一緒にいたいと思うし、また、一生一緒にいられると確信できるからこそ、別れの時が気になってしまう。
どんなに考えてみても、俺が人間でタロが犬だということは変わらなくて、寿命のことはどうしようもないのだから、出来るだけそのことは考えないようにしているのだが、それでもふとした時に、そのことが頭をよぎってしまう。
そんなことを考えながら絵を描いていると、すぐそばに置いたクッションの上で丸くなっていたタロが起き上がって、俺のズボンのすそを噛んで、クイクイとひっぱってきた。
「ん? どうした?」
視線を落としてタロを見ると、タロは一点を見つめていた。
その視線を追いかけると、そこには時計があった。
「あっ、しまった、もうこんな時間か。
ごめんごめん、夢中になってお昼忘れるところだったよ。
大丈夫だよ、タロが教えてくれたし、ちゃんと食べるからな」
そして俺は不安は頭のすみに押しやり、時間を教えてくれたタロの頭をなでてやってから、昼ご飯を準備しに行ったのだった。
――――――――――――――――
そんなある日のことだ。
散歩から帰ってきて人間に変身したタロが、いきなり「キャン!」と鳴き声を上げた。
「タロ! どうした!」
「ご主人様、どうしよう!
尻尾が、僕の尻尾が、2つに裂けちゃった……!」
「ええっ!」
慌ててタロのお尻を見ると、そこには確かに2本の尻尾が不安そうに垂れ下がっていた。
「ん? タロ、裂けたっていうけど、これ2本とも前と同じ太さだぞ?
これ、もしかしたら尻尾が裂けたんじゃなくて、増えたんじゃ……」
「はいはい、ちょっとお邪魔しますよ」
俺がタロの2本の尻尾を観察していると、突然、中庭のサッシがガラッと開いて人が入って来た。
「えっ、大家さん?」
庭から入ってきたのは、大家の佐々木さんだった。
いつもの紫の袴 の上に白い作務衣 をはおり、手には竹ぼうきを持っていて、まるでついさっきまで神社の境内 を掃除していましたとでもいう格好だ。
「大家さん、今どこから入って……。
あっ、ていうか、ヤバい、タロ、隠れて!」
「ノリさん! 大変なんです! 僕の尻尾が!」
慌てて犬耳犬尻尾2本の人間姿のタロを佐々木さんから隠そうとする俺とは反対に、タロは佐々木さんの方に駆け寄っていく。
「えっ、ノリさんって、まさかあの猫の?」
タロの口から聞き覚えのある名前が出てきて、俺が驚いていると、タロは「あっ」と言って慌て出した。
「あ、あの、ご主人様、違うんです。
大家さんはノリさんじゃなくて……」
「はいはい、タロくん、大丈夫だから落ち着いて。
松下さんも、私はタロくんの事情は全部わかっていますから、心配いりませんよ。
詳しいことは、今から順番にご説明しますから」
大家さんはそう言うと、タロの肩にぽんと手を置いた。
「タロくん、尻尾が2本になったのは、力が強くなった証拠だから、心配しなくていいからね。
それと、母上から松下さんにはもう全部話してもいいと言われてきたのですけど、私から説明してしまってもいいですか?」
「あ、もう内緒にしなくてもいいんですか?
はい、だったらご主人様には全部知っていて欲しいですし、お願いします」
「はい、わかりました」
佐々木さんはうなずくと、タロの肩から手を離して俺の方を向いた。
「えー、まず私が猫のノリさんかということですが、その通りです。
ほら」
そう言うが早いか、佐々木さんは俺の眼の前でパッと茶トラの猫に変身した。
「わっ、化け猫!」
思わず俺が叫ぶと、ノリさんこと佐々木さんは苦笑らしき顔になった。
「いえ、残念ながら化け猫ではなくて、本性はこちらでして」
そう言うと猫の姿をした佐々木さんは、またパッと変身した。
「……キツネ?」
佐々木さんが次に変身したのは、稲穂色の毛皮の狐の姿だった。
ただし、狐と言っても普通の狐ではなく、立派な尻尾が4本もある。
その姿はとてもただの動物とは思えない堂々としたたたずまいだったが、そのつり目には佐々木さんの、ふっさりした尻尾にはノリさんの面影があった。
「この姿では話がしにくいので、元に戻りますね」
そう言うと同時に、狐は人間の佐々木さんの姿になった。
いつの間にか手に持っていた竹ぼうきは消えていて、服装もいつもの白い着物と紫の袴になっている。
「すいませんが、長くなるので座らせてもらってもいいですか?」
「あっ、はい、どうぞどうぞ」
「僕、お茶入れてきます」
俺は人間に戻った佐々木さんを食卓に案内し、タロは台所にお茶を入れに行く。
「まず、タロくんに人間に変身できる力を授けた者のことですけれどね。
松下さんも薄々はお気づきかと思いますが、そこの庭の稲荷神社のご祭神 です」
「ああ、やっぱり」
「ええっ、ご主人様、知ってたんですか?」
佐々木さんの言葉に俺が納得していると、食卓にやってきたタロが驚いたような声を上げた。
タロはお茶を入れると言ったものの気が急いていたらしく、作り置きの麦茶をコップに注いだだけのものをお盆に乗せている。
「いや、なんとなくそうじゃないかなと思ってたくらいだけどな」
「でも僕、内緒にしてたのに、ご主人様にばれてたなんて」
「まあまあ、タロくん。
松下さんも気付いていても、タロくんが内緒にしてるのを尊重して、自分も内緒にしていてくれていたのですから、特に問題はありませんよ」
佐々木さんはそう取りなすと、話を続けた。
「それでそのご祭神なんですけどね。
ここと、私が住んでいる商店街の端の稲荷神社は、名前は稲荷神社なんですが、実はお祭りされているのは、元々は江戸時代にさんざん悪さをしていた、尻尾が九本ある化け狐でね」
「化け狐……」
佐々木さんの言葉に、俺はさっき佐々木さんが変身した狐の姿を思い浮かべる。
「ええ。
その化け狐が人間のお侍と恋に落ちて、その後は改心して、このあたりに住んでいた人間のために妖力を使って色々と人助けをしたものですから、狐の死後、感謝した人々がその化け狐を神様としてお祭りしたわけです。
ちなみに、私はその化け狐とお侍の息子でして」
「えっ、江戸時代の狐の息子って、佐々木さん今何才……」
俺が思わず疑問を口にすると、佐々木さんはふふっと笑った。
「まあ、半分化け狐ですから、年なんかもう忘れてしまいましたよ。
もっとも、今は化け狐ではなく、母である神のお使い狐――神使 ということになっていますがね。
あとちなみに、タロくんが私のことをノリさんと呼んでいるのは、私のフルネームが佐々木倫通 だからです」
そこまで話したところで、佐々木さんは麦茶をすすった。
「さて、私の話はここまでにして、タロくんのことを話しましょうか」
ともだちにシェアしよう!