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第51話 ときめきがとまらない〈泉水目線〉

   その日泉水は、大学の中庭に設置されたベンチに腰掛け、午後のコーヒー休憩をしていた。  このあとすぐに大学院生らの実験指導に戻らねばならないのだが、朝からずっと講義でしゃべりっぱなしだった喉を休めるべく、甘いコーヒーで一服しているというところである。 「はぁ……」  清々しい春の風が、泉水の頬を撫でていく。英誠大学のキャンパスは緑が多い。風にそよぐ新緑から降り注ぐ木漏れ日が、泉水の白衣に複雑な陰影を浮かび上がらせている。  ――一季くん、どうしてはるんやろなぁ……。  ふと、中庭の向こうにそびえるB棟を見上げつつ、泉水はほうとため息をついた。すぐそこで、一季が生真面目に職務に勤しんでいるのかと想像するだけで、なんだか、胸の奥と下半身がむず痒くなってくる。  ――とうとう、一季くんとセックスしたんやな、俺……。あぁ……夢みたいや……。なんや今でも信じられへんわ。信じられへんけど…………。  一季に童貞を捧げたのは、ほんの数日前のこと。  あの日のセックスを思い出すだけで、泉水の頬はカッと熱くなり、股間にじゅわっと熱が滾ってしまう。それほどまでに、一季から与えられた快感は素晴らしいものだった。  ――う、うう、あかん、あかんで……!! お、俺は一応、ここでは指導者の立場なんや……!! まだ仕事中やのに、しかもこんな爽やかな時間帯から勃起なんてしたらあかん……!! そんなんただの変態や……鎮まれ、鎮まれ俺……!!  すうーーーーーはぁーーーーーと長々しい深呼吸をしてみるも、いちど灯ってしまった妄想の火は、なかなか鎮火してくれない。頭から一季の乱れる姿を追い払おうとすればするほど、淫らな一季が脳内で増えていく。  泉水の愛撫をあんなにも喜び、身をくねらせてよがってくれた。普段は涼しげに整った顔が、快感に艶っぽく歪む様子は、凄絶なほどのエロスだった。  そして、初めて目にしたしなやかな裸体。それは、まるで美術品のように崇高な美。本音を言うなら、あの白い肌の全てを、くまなく舐め回してしまいたかったものである。  そして、一季と一つになった瞬間の、あの感動。  全身をとろけさせるほどの甘い快感が降り積もってゆくとともに、徐々にせり上がる激しい情動。気持ちよさと愛おしさがないまぜになり、永遠にこうしていたいと思わされた。己の肉体で、愛しい恋人を絶頂へ導けたという誇らしさも相俟って、一季の『初めて』になれたという陶酔感は燃え上がり、胸がいっぱいになった……。  ――あ、あかん……あかんな……。最中の一季くんを思い出すだけで鼻血出そうや……。よう耐えれたな俺……あん時の自分を全力で褒めてやりたいわ……はぁ……今んなって、こんなにドキドキしてしもてるのに……。  セックスのあと、一季は気恥ずかしげにそそそっと脚をを閉じ、顔を真っ赤にして『しゃ、シャワー……先に行かせてもらってもいいですか……?』と泉水に尋ねた。泉水としては、是が非でもバスルームまでご一緒したいところだったのだが、いざ素面に戻ってしまうと。奥手の虫が再び顔を出すもので、『ど、どうぞ……!!』と言うことしかできなかったのである。  一季がシャワーを浴びる水音を耳にしながら、泉水はごろりとベッドに寝転がり、ぼうっと天井を見上げていた。そうしているとようやく、実感が湧いて来た。ついさっき一季とのセックスに成功したこと、童貞を卒業したこと……それは深い感慨となって、泉水の目頭を熱くしたものである。 「……今夜とか……空いてるかな。あっ、いや、別にエロいことしたいとかそういうわけとちゃうねんで? あ、でも……ちょっと、ちょっとくらい………………あ、いやいやいや、別に下心があるとか身体目当てとかそういうわけじゃないねんけどっ……! め、飯くらい誘っても別に罪はないやんな……で、でも、二人きりになってしもたら俺…………っ、ううっ、緊張してきた……ど、どないしよ、俺、どうやって一季くんとしたんやったっけ……あかん、落ち着け、落ち着け…………!!」 「何やってんの?」  ベンチに座って頭を抱えていると、ぽんと背中を叩かれた。  内心では飛び上がりそうになるくらい仰天していたが、泉水はなんとか悲鳴をこらえて、バッと素早く顔を上げた。  するとそこには、なんと、二葉と三騎が立っているではないか。 「…………えっ? な、何してんの?」 「いやいやこっちのセリフだし。センセ、仕事は? ていうかさっき何ブツブツ言ってたの? すげーあやしかったんですけど」 と、三騎は腕組みをし、生ぬるい目つきで泉水を睥睨した。よもや心の声がダダ漏れていたのではあるまいか……!? と泉水はサッと青くなる。  しかし三騎の興味はすぐに削がれてしまったようで、きょろきょろと物珍しげにキャンパス内を見回している。泉水は威厳を取り戻すべくゴホホン!! と咳払いをし、スッと立ち上がって白衣を正した。 「こ、こんな平日に、なんでここにいてんの? しかも、二人で」 「……兄さんに、届け物を頼まれたんですよ」 と、二葉がボストンバッグをちょっと持ち上げて見せた。そういえば、いつぞや実家に泊まりそびれた時、荷物もそのまま置いて帰ってしまったのだ。 「あ、そうなんや。三騎くんも、一季くんに会いたくて来たん?」 「えー? いやいやセンセイ、俺そんなブラコンじゃねーから。この私服ダサ男と一緒にしないでよ」 「う、うるさい!!」  改めて見てみると、二葉の私服には絶妙なセンスを感じなくもない。  目の覚めるような鮮やかなオレンジ色の長袖ポロシャツに、生真面目な黒のスラックスを履いていて、足元は白いスニーカー。泉水はしげしげと二葉の全身を見回した後、顔もスタイルも平均以上なのに、どうしてこういう事故が起こるのだろう……と腕組みをして首を傾げた。 「……君、スーツやとモテるやろ?」 「えっ? いえ、そんなことは……まぁ、ありますけど」 「ま、スーツでモテても私服ダッセーし、しかも童貞だし? 彼女いつできんのかなー?」 「おっ、おおお、大きなお世話なんだよ!! ていうかなんなんだお前!! 停学くらって暇だからって、勝手に車に乗り込んできたくせに!! なんだその口のききかたは!!」 「停学?」  聞き捨てならないワードに反応すると、三騎はどことなく誇らしげな顔で泉水を見上げた。 「街でうぜーヤンキーに絡まれたからさー、覚えたてのプロレス技かけてやったんだ。そしたらさ〜あっさり相手伸びちゃってさ! やべぇ俺超つえーじゃんと思って調子乗って喧嘩してたら、たまたま見回りに出てたせんせーに捕まったんだ」 「お、おう……そうなんや。うぜーヤンキーか……そうか」 「そーなんだよ三人で迫ってきたんだぜ? 『いいから俺と付き合えよ』とか意味わかんねーこと言いながら飛びかかってくるからさぁ、すれ違いざまにラリアットかけてー、もう一人のやつにぶちかましたドロップキックがきれ〜に決まってさぁ! そんで、もう一人のやつが突っかかってくるから、カニばさみ喰らわせてやって……」 「はいはい、もういい。そんなこと、自慢げに語るもんじゃない。ただの暴力行為だろう」 と、二葉が毅然とした口調で三騎の言葉をぶった斬る。すると三騎はむうううっと頬を膨らませて二葉を睨んだ。 「うっせーな!! 売られた喧嘩を買わねーでどーすんだよ!!」 「……あぁ……どうしてこいつはこんなに血の気が多いんだ……。将来が心配すぎる……」 「まぁまぁまぁ」  心底疲れたようにため息をつく二葉の肩をぽんぽんと叩いてやりつつ、泉水はひきつった笑みを三騎に向けた。 「事情は分かった。色々大変やな、君も」 「そーなんだよ。俺ってほら、つえーからさ、他のガッコのやつらにも狙われたりとかしちゃうわけ」 「……でも、喧嘩は大概にせなあかんで〜。一季くんも心配するしな」 「んーまぁ、そうだけどさー」 「で、届けものって? なんやったら俺、渡しとこか?」  泉水がさりげなく話題を変えると、二葉がゆるりと首を振った。そして、腕に嵌めた渋い腕時計に目を落とす。 「待ち合わせしてるんです。午後から休み取ってるから、届けてくれたお礼に食事でもって」 「あ、そうなん? ええなぁ」 「……そんな羨ましそうにしなくっても、あなたはいつでも兄に会えるでしょう」 「え? まぁ、そうやけどさぁ」  ついにセックスまで到達したというのに、食事に誘うことさえ緊張してしまうのだ――とは言えるわけもなく、泉水は曖昧にうなじを掻いた。  するとその時、A棟の自動ドアがサッと開いて、中から爽やかに一季が姿を現した。  一季は外に出た瞬間、眩しげに目を細め、額の前に手を翳す。同時にさぁっと少し強めの風が吹き、一季の髪を乱していった。淡いブルーのワイシャツの袖を軽く捲り、ノーネクタイで軽やかに階段を降りてくる一季の姿は、アイドルの顔負けの眩さである。  思わず黄色い歓声と共に拍手をしてしまいしそうになった泉水だが、三騎が「おーい、こっちこっちー!」と声をあげたことで、ハッと我に返る。そして静かに、両手を白衣のポケットにしまい込んだ。 「あっ、泉水さん……」  真っ先に泉水に気づいた一季が、ぽっと頬を染めている。照れた表情もすこぶる可愛く、きゅんきゅ〜んと胸が甘く疼いた。 「あ、あの……ここで、ばったり会うて……」 「あ、そ、そうなんですか……へぇ……」 「……」 「……」  向かい合ったはいいが、なんとなく顔を見るのも気恥ずかしく、ついつい挙動が不審になる。一季も頬を赤らめて、何やら言葉を探している様子だ。  そうして二人がしばしもじもじしていると、二葉のわざとらしい咳払いが辺りに響いた。 「兄さん、ほら、忘れて行ったカバンだよ」 「あっ、ありがとう!! ごめんねわざわざ休みの日に……!! な、何食べたい!?」 「……別に何でも」  一季の言葉に応じる二葉は、ものすごく不機嫌そうだ。ありありと構ってオーラを発しつつ、ぐいとボストンバッグを突き出している。  すると三騎が、意地の悪い笑みを浮かべつつ、うりうりと二葉の脇腹をつつきはじめた。 「おいおいおいおい真昼間から堂々とヤキモチかよ〜! マジキモいんですけど〜〜〜」 「う、うっ、うるさいな!! 別に僕はヤキモチなんか!!」 「ムキになっちゃって〜〜。拗らせすぎてマジやべ〜〜〜。あ〜あ、ふた(にぃ)、マジ末期」 「ばっ……バカにするのもいい加減にしろ!! 弟が兄を慕って何が悪い!! ていうか、マジ末期なのはお前のほうだろ!! 高校入学以来ずっと、テストで最下位爆進中のお前の勉強を見てやってるのは誰だと思ってるんだ言ってみろ!!??」 「あっ!! それ今言うんじゃねーーーよ!!」 「………………最下位?」  二人の喧嘩を止めるでもなく聞いていた一季の眉が、ピクリと動いた。  不穏な気配を察した三騎の顔色が、じわじわと青く染まっていく。  にっこり人の良さそうな笑みを浮かべつつ、一季はガシっと三騎の肩を掴んだ。三騎が「ヒッ」と怯えている。 「…………三騎。そのへんの話、ご飯食べながら詳しく教えてもらえるかな?」

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