56 / 71

第56話 それぞれ、前へ

  「ふぁ…………」  書架にファイルを戻しつつ、一季は大欠伸をした。  今日は朝から欠伸が止まらず、腰もずっしりと重だるい。 「どーしたんすか嶋崎さん、超絶ねむそっすね」 「え? そうかなぁ」  デスクに戻ると、田部がそう声をかけてきた。一季は曖昧に微笑んで、「ちょっと寝不足なだけだよ」とごまかしておく。  平日にも関わらず、昨晩ユニフォームプレイに燃えまくってしまったおかげで、一季はすっかり寝不足なのである。  昨日の泉水はすごかった。兎にも角にも、すごかった……。  抱いても抱いても抱き足りないと言わんばかりの情熱的なセックスで、一季は足腰も立たなくなるほどにメロメロにされてしまったのである。  あの後ベッドで対面座位でひとしきり燃えた後、シャワーを浴びながらもう一度セックスに及んだ。  シャワー中だというのにユニフォームを脱がしてもらえず、濡れてぴったりと肌にくっついたユニフォームの上から全身を愛撫された。そのいやらしさに一季は興奮を禁じ得ず、泣きながら泉水に挿入をせがんでしまうほどだった。  浴室は声や水音がやたらと響くため、自分の喘ぎ声や泉水の荒っぽい吐息が、やたらと生々しく聞こえたものだ。しかも、バスルームの中には縦長の鏡がある。ずぶ濡れのユニフォーム姿で腰を突き出し、熟れきった乳首を後ろから愛撫されつつ、優しく深く突き上げられている自分の姿が、はっきりと見えてしまう。  さらには、一季を夢中で抱く泉水の逞しい肉体、ぬちぬちとアナルを出入りする泉水の怒張まで、鏡ごしに見えてしまった。一季はそれだけで、何度も絶頂してしまい……。  ――はぁ……だめだ、集中できない。  昨日の痴態が脳内をめぐり、まるで仕事に集中できない。キーボードを打っていた手を止めて、一季はハァ、とため息をついた。コーヒーでも飲んで気分を紛らわせようと思い立ち、「う〜〜〜ん」と唸りながら伸びをしていると、田部が何やら閃いたような顔をした。 「あ〜〜〜〜〜なるなる、そゆことっすか」 「え? 何が?」 「なるほどなるほど〜〜〜〜。嶋崎さん、見た目によらずお盛んっすね! いやぁ〜〜〜うらやまっすわ〜〜〜」 「こっ、こら! 何言ってんだよこんなとこで!!」  大慌てで田部を黙らせ、一季はきょろきょろと辺りを見回す。さいわい、事務室の中は適度にざわついていて、二人の会話に気にしているような人物は見当たらなかった。一季はほっと胸をなでおろす。 「あ、やっぱそーなんすね。と、塔真先生と……、そーいうことなんすよね?」 「え? ま、まぁ……そうだけど」 「ふぉぉ……やっぱ嶋崎さんマジパネェっすわ。塔真センセって、かなりガタイいいじゃないすか? なのにこの細い身体で、とか…………あぁ、なんか想像すると興奮するっつーか……ハァ……」 「ちょ、想像しなくていいから! そんなこと言ってないで、仕事に集中しなさい!」 「あ、ウイっス」  田部はまだ色々と誤解しているらしいが、あえて訂正することでもないか……と思い、一季は居住まいを正して椅子から立ち上がった。田部よりよっぽど仕事に集中できていない自分を戒めるべく頬を叩くと、事務室の隅にあるコーヒーメーカーで、ブラックコーヒーをマグカップいっぱいに注いだ。  すると、チリチリ〜ンと呑気な鈴の音が事務室に響く。ドアに取り付けてあるベルが、来客を知らせている。すぐそばにいた一季は、反射的に声を上げた。 「あ、はーい。少々お待ちください」  ひょいと給湯スペースから顔を出すと、渡瀬里斗がカウンターの向こうに立っていた。いつぞや目にしたカーキ色のブルゾンにジーパンという、学生らしいラフな格好だ。  里斗は一季に気づくと小さく頭を下げ、唇だけで笑って見せた。  + 「どうしたの? わざわざ外で話がしたいなんて」  里斗が「外、いきませんか?」と言うものだから、二人は中庭へて出て、ベンチに腰を落ち着けることにした。今は人気も少ないが、あと三十分もすれば数多くの学生が昼食を求めて、キャンパス内を歩き回ることだろう。 「そりゃ、教務課の人たちに聞かれたくない話だったからに決まってるじゃないですか」 と、里斗は相変わらず可愛げのない口調でそう言うと、ブルゾンのポケットから缶コーヒーを取り出し、一季の方へ差し出した。一季が目を瞬きつつ里斗とコーヒーを見比べていると、ずいと押し付けられるような格好で手渡される。 「……あ、ありがとう。どういう風の吹き回し?」 「別に。これといった理由はありませんよ。俺だけ一人飲んでるのも、おかしいじゃないですか」  いつの間にか、『僕』から『俺』へと自称が変わっている。表情からも作り物めいた笑みが消え、いつになく自然な感じがする。ベンチに座って細長い脚を組み、悠然とした動きで缶コーヒーを口にする里斗を眺めつつ、一季もぷしゅ、とプルタブを引いた。 「で、どーなんですか、塔真先生とは。あのあとセックスできたんですか?」 「ぶっ…………い、いきなりそういう話題振る?」 「は? 別にいいじゃないですか。世間話とか挟んだほうがよかったです?」 「ま、まぁ……いいんだけど」  あの同窓会から、実際はほんの一週間ほどしか経っていないが、なんだかものすごく長い時間が過ぎたように思える。  長年に渡り、一季の心と身体を捕えていた問題が一気に解決し、泉水との関係も進展した。不感症であった頃の自分が嘘のように、泉水との触れ合いは一季に快楽を教えてくれた。  泉水が触れると、どこもかしこも心地が良い。優しく丁寧でありながらも、身も心もとろけるような情熱的な愛撫。時間を忘れるくらい、甘く甘く感じさせられて……。 「……先輩。顔、緩みすぎ」 「………………えっ? あ、うそ」 「ほんとです。なるほどね、良かったじゃないですか。その顔を見るに、不感症の方も治っちゃったみたいですね」 「う、うん……。ていうか、そんな恥ずかしい顔してたかな……気をつけないと」 「先輩がその調子じゃ、先生はもっと緩んだ顔してるんでしょうね」 「う、うーん」  里斗は淡々とそう言って、ふっと気が抜けたように笑った。そして顎を上げてごくごくとコーヒーをあおったあと、はぁ、と軽いため息をついた。 「こないだ、先輩に話したじゃないですか。俺の初体験の相手のこと」 「あ、ああ、塾講師の先生だったんだよね。……確か中一の……」 「よく覚えてますね」 「いやだって、衝撃的だったから……」 「俺、今度会いに行ってみようと思ってるんです、その先生に」 「え、ほんとに?」  そう言ってクールに微笑む里斗の顔には、迷いやためらいは一切なかった。西洋の血が混じった美しい顔には、清々しい決意が浮かんでいる。 「あの人、今は田舎に引きこもって陶芸家をやってるらしいんです。当時、うちの親の希望で警察沙汰にはならなかったけど、隠そうとしたって噂にはなります。だからもう、こっちにはいられなくなったんでしょうね」 「そっか……」 「でも、こないだたまたま、SNSで先生の顔見つけたんです。名前はもちろん本名じゃなかったし、雰囲気もだいぶ変わってたけど、俺、すぐ分かりました」 「そうなんだ。その先生、今はいくつなの?」 「えーと。当時学生のアルバイトだったから、今は三十五、六ってとこかなぁ」 「そっか、まだ若くていらっしゃるんだね」 「はい。……俺があの人の人生潰したようなもんだし、いきなり行っても追い返されるだけかもしれないけど。突然会えなくなって、言えなかったことがたくさんあるから……。それだけでも、きちんと伝えられたらと思うんです」 「うん……そっか。いいと思う、頑張っておいで」  一季はぽん、と里斗の頭に手を置き、にっこりと微笑んでみせた。すると里斗もいつになく素直な笑みを浮かべ、こくりと頷く。  そしてその直後、ややふてくされたような顔をして、里斗はぷいとそっぽを向いてしまった。 「べ、別に励ましてもらわなくても結構なんですけど。ていうか、気安く触らないでもらえますか」 「え、あ、ごめん。なんか、弟に接してるみたいな気分になっちゃって」 「弟って……。そんなの聞いたら、ブラコン次男が怒るんじゃないですか」 「ああ、二葉? うん、そうかも……」 「否定しないんですか? そんなふうに甘やかすから、あいつはいつまでたっても兄離れできないんじゃないですかね」 「あれ、二葉の心配してくれてるの?」 「べ、別にそんなんじゃないですって。っていうか嶋崎家の事情なんて興味ないし」 「ふふっ、そうだよね」 「何笑ってるんですか」 「あははっ」  ころころと表情を変えて怒る里斗のことが、だんだんと可愛らしく思えてきた。一季が声を立てて笑う様子を不機嫌そうな顔で見ていた里斗だが、ふとした拍子に表情が緩む。  そして里斗はひょいと身軽に立ち上がり、空に向かって息を吐いた。 「ま、そういうわけなんで。玉砕して帰ってきたら、飲みにでも連れてってくださいね」 「うん、了解。応援してる」 「だから、励ましとかいらないから。……それじゃ」  里斗はつんとした顔でそう言うと、ひらりと手を振って一季の前から去っていく。  里斗は里斗で、未消化だった過去と向き合い、きちんと前を向こうとしているのだろう。しゃんと背筋の伸びた後ろ姿は凛として、見惚れるほどにきれいだった。  一季はしばらくその背中を見送りながら、「頑張れ、渡瀬くん」と呟いた。

ともだちにシェアしよう!