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運命のα
――『うんめいのつがい』って、どんな感じですか?
――すぐにわかるんですか?
「『運命の番』に会うと、ビビビって雷みたいな電流が走るんだ」
「いや、私が君に出会ったときには、盛大な鐘の音が鳴り響いたよ」
「すぐにわかるさ」
「だって『運命』だからね」
幼い頃、自分にそう教えてくれたのは、結婚を間近に控えた叔父とその番 だった。
――とっても良いにおいがするってほんとうですか?
「『番』の香りは特別」
「心地よくて、安心して、でも、それ以上に躰を……」
「ちょっと待って子供に何を教えようとしているの?」
「何も? 表面的なことだけだよ。――君のかぐわしい匂いがどんな風に香るかなんて、たとえ身内であろうとおいそれと教えるわけはないだろう?」
「そうじゃなくて…もう、…からかうなよ」
「かわいい人…私の唯一」
「僕にも、あなただけ…、僕の『運命』」
彼らはとてもとても幸せそうだった。
彼らの向こうには、前夜から降り積もった雪景色が広がっていた。
窓から見える外の景色は白銀に彩られ、昨晩の吹雪が嘘のように晴れ渡った空から降り注ぐ温かな陽光に照らされ、きらきらと……まるで彼らの前途を祝福するように輝いていた。
それは、とてもとても美しく、幸せな情景だった。
幼い無垢な子供に憧れを抱かせるに十分すぎるほどの幸福に満ちていた。
――運命の番は特別なもの。
その光景とともに、幼かった夢川の胸にそれはしっかりと刻み込まれた。
叔父たちに悪気はなく、決して間違いでもなく、それは確かに一つの真実でもあった。
ただ、彼らが口にした答えは、そうと意図せぬままに、……純粋だった子供にとって洗脳にも等しい働きをなし、人格形成にも少なからぬ影響を及ぼす結果を招いたのである。
そうして、幼い時分に植え付けられた印象は、ずいぶん長い間…夢川を惑わし続けることと相成った……。
夢川 理 は恋多き男、と呼ばれている。
しかし、残念ながら、その恋が幸福な結末を迎えたことは一度もない。
高校のときに恋したΩの少年は、とても良い匂いがした。
『運命』に出会えたのだと歓喜したが、彼は他のαの番となった。
……のちに、その恋した少年はΩフェロモンを増強するサプリメントを飲んでいたと判明した。あの香りは紛い物だったのだと知った時のショックはさすがに大きかった。
それから、匂いには気をつけるようにした。
昨今ではフェロモンを増幅したり、ファッションのように自在に変える薬まであるらしい。怖い世の中である。
大学のときに恋した相手は、触れた瞬間、手に電流のような痺れが走った。
今度こそ『運命』だと思い、付き合いを申し込んだ。
しかし、婚約までした相手だったのに、……あろうことか、相手に『運命』が現れて振られてしまった。
『運命の番』は一人ではなかったのか、と愕然としたが、「あなたは俺の運命の相手じゃないよ。電流? ……あれはただの静電気。乾燥した冬の日だったし、俺、静電気体質なんだよね。痛かった」と言われてしまった。
……さすがに落ち込んでやけ酒を浴びるほど飲んだあげく道端で吐いてそのまま路上で意識を失い、あわや凍死しかけていたところを、長い付き合いになる部下(その当時は後輩)に回収され九死に一生を得た。
だが、命の恩人たる部下は辛辣だった。
「あんたにもしものことがあったら、俺があの腹黒会長に何されるかわからないんですからね! しっかりしてくださいよ。まったくもう! だいたい婚約破棄の一回や二回くらいなんですか。今更副会長の恋愛的黒歴史が一つや二つ増えたって呆れるくらいで誰も驚きませんよ」
自 らの保身しか頭にないひどい言い草である。
黒歴史とは失礼千万な。というか全般的に失礼なことしか言っていない。
……今までの恋愛に恥じるところなどどこにもないのに。
どれもこれも本気だった。
好きだった。
大切にしていた。
なのに、気持ちは届かない。
いつだって、――届くことはなかった。
「君に私の気持ちはわかりませんよ」
……自分の気持ちばかりを大事にしていたから、そのとき彼がどんな表情を浮かべたのか見ようともしなかった。だから、彼が寂しそうに笑っていたことを、夢川は知らない。
部下である彼との付き合いは、早十年ほどになる。
出しゃばることなく、半歩下がって主を支える。
というような、……間違ってもそんな殊勝な部下ではない。
口も出すし、場合によっては手も出す。
一度など、「いい加減に目を覚ませ」と張り手をかまされたこともある。
……あれは…確か結婚詐欺にあったときだ。
おかげで未遂に防げたものの……、すっかり相手のΩにのぼせ上っていた自分はかなり酷いことを彼に言った。
たかが部下の分際でプライベートに口を出すな…みたいなことを、つい勢いで言ってしまった。
しかし、――それでも彼は目に涙を浮かべながらも、一歩も引かずに自分を諭した。
「本当に、あれがあんたの運命だと思うのならば、俺を思い切り殴り返してそいつのとこへ行け! さぁ、殴れよ!」
まさに捨て身の説得だった。
「俺の屍を越えていけ」的なシチュに、……なんだかすべてがバカバカしくなったし、なによりも、彼を殴ってまで相手のところへ行きたいなどとは爪の先ほども思わなかった。
――ありえない話だ。
自分にずっと寄り添ってきてくれたこの部下を振り切ってまで相手のΩのところにいく価値が…意味がどこにも見いだせなかった。
同時に、熱病のようだった恋心もあっという間に冷めてしまった。
恋愛中は夢中になるが、これまでも不思議とそれを後に引きずることはなかった。
この相手と出会ったときに、鐘の音が鳴り響いていたから今度こそ『運命』だと思ったのに――、結局、冷めてしまった。
のちに、その鐘の音はたまたま近くの教会で執り行われていた結婚式の最中に鳴らされたものだと判明した。『運命』だと思ったのは勘違いだったのだ。
「あんたの恋愛バカさ加減にはほんとに愛想がつきる…」
すでに自分の秘書として働いていた彼に、付き合いきれないと云わんばかりの呆れきった顔で溜息を吐 かれ、夢川はドキリとして急激な不安感に襲われ、狼狽 えた。
「……や、やめないですよね?」
「……」
「お給料上げますからやめないでください。君に辞められると困ります」
「……」
「この間、テレビで観て行きたいと云っていた創作料理のお店を予約しますから」
「……………………ほんとに?」
「はい。デザートに同じビルに入っているパンケーキ専門店にも行きますか?」
「……………………行きたいけど、そんなにいっぺんに食べられない」
「では、そちらは別の日に行きましょう」
いかにもしぶしぶ…という感じに頷いた彼の頬が緩んでいるのをちゃんと目でチェックし、危機を乗り越えたことに安堵する。
エサで簡単に釣れてしまう部下のチョロさにいささか心配になるが、……妙な輩に引っかからないように自分が目を光らせておけばいいだけなので問題ないだろうと忠告は控えた。
なぜなら、彼がエサで釣られてくれなくなった場合、一番困るのは自分だからだ。
「おまえは『運命』に夢を見すぎだよ」
いつだったか忘れたが、やはり呆れた顔でそう口にしたのは、これまた十年以上の付き合いになるαの友人、――自分の部下が一目も二目も置いて怖れている元生徒会長である。
「『運命』だかなんだか知らないが、少なくとも俺はどんなに仲の良い番同士が一緒に居ても、そいつらから光り輝く純白のオーラが放たれるのなんて一度として見たことないね」
「今度、叔父たちを紹介しましょうか?」
「結構。聞いただけで胸やけがする。そんなバカっぷるに率先して会いたいとは思わない」
一刀両断されて鼻白む。
『運命の番』をバカップル扱いとは…これだから情緒を解さない奴は――…、……いや、この男の番はこれまた輪をかけて情緒とは縁遠そうな男だった。似たもの夫婦なのだ。さぞ家庭内はぎすぎすしているに違いない。そう考えれば同情の余地もある。
ちなみに、今でも叔父たちは周りが羨むほどに仲睦まじく、幸せそうな夫婦生活を営んでいる。やはりあそこは理想の関係だ。憧れる。
「――『運命の番』うんぬんはともかく、あまりΩを信用するな」
そう忠告してきたのも、この友人だった。
会長はΩが嫌いだ。
もちろんそれは周到に隠され、Ωを毛嫌いする様子をみだりに周りへ見せるような愚行を犯したりはしないが、……それなりに長い付き合いになれば察せられる程度にはΩを忌避している。Ωに対する露骨な嫌悪は、差別としてとられかねない。Ωへの人種差別発言は、いまや大きく取りざたされ、問題視される時代となっていた。
Ωがαの性奴隷のように扱われていた時代もあった頃を思えば、ずいぶん人の考え方も変わったものである。
それでも、やはり変わらない……変えられないものもあった。
――αの本能はΩを求め、またΩの本能もαを求める。
これだけは、魂に刻み込まれ、未来永劫変わらない不変であるように思えた。
そして、自分は『運命の番』もそのようなものだと思い込んでいたのだ。
そんな凝り固まった価値観…固定観念を突き崩してきたのは、秘書の存在であり、また友人の言でもあった。
きっかけなど、ほんの些細な事で、――しかし、訪れるべくして訪れた瞬間でもあった。
とあるパーティー会場で元生徒会長の友人と行き会った夢川は、しばらく立ち話をしていた。
先程まで傍に居た秘書は、友人を煙たく思っており、挨拶を終えるとそそくさとその場を逃げ出し、テーブルに並んだビュッフェコーナーへ獲物を前にした狩人のように両目をらんらんと輝かせて行ってしまった。食い意地の張った秘書がパーティーで一番楽しみにしている場所である。
近況を報告し合っていると、ふと友人の視線がビュッフェコーナーへ向けられているのに気づいた。
つられてそちらを見れば、秘書が背の高い男と談笑している姿が目に映る。
……なぜかざわりと胸の奥が波立った。
とっさに踏み出しかけた足を、友人が引き止める。
「……心配ない。彼の身元は知っている」
内心の読めない顔で、友人は続けた。
「雛森 家の次男坊だよ」
「雛森…? では、彼は…雛森風紀委員長の兄…ということですか」
友人は「風紀委員長か。それ、懐かしいな」と楽しげに笑った。それは心からの笑みで、彼がそんな顔をするのを夢川は久しぶりに見た。
そうだ。この友人は雛森風紀委員長と一緒に居る時は、よくこんな顔をして笑っていたものだ。それこそ、――懐かしい学生時代に。
しかし、雛森風紀委員長は秘書にとっても因縁深い人物なのである。
なにを隠そう、今話題となっている雛森風紀委員長が秘書の初恋の相手であり、そして彼がくだんの委員長に失恋したことがきっかけで自分たちは出会ったのだから。
雛森風紀委員長の兄ならば、きっと信用のおける人物だろう。だが…、
相手の素性がわかったことで安心するどころか、胸のざわめきがより一層強くなった気がして夢川は戸惑った。
「案外、良い縁かもな」
「……なにを言っているんですか?」
「岬さん……あぁ、彼の名前だよ。俺も昔から世話になっていて、懇意にしている人なんだ。性格はお世辞にも良いとは言い難い人だけど、あの人なら間違いはないだろうね。やり手だし、強いし、身内をなにより大切にする人だ。浮気の心配もない。身持ちの良さは保障するよ。あの人は、とても優秀なαだ」
「ですから……なにが言いた」
「わかっていて聞くのか? ――それとも、本気でわかっていないのか? 俺も、長年の友人をそこまで愚かだとは思いたくないんだけどな」
さらりと毒を吐き、嫣然と微笑む。こんな時、この友人を怖がる秘書の気持ちが自分もわかる気がする。本当にこの男は、果たして自分の友人なのかと疑わしく思ってしまう。その美しい藍色の瞳の中に、欠片の情も見いだせない、こんな時には……。
「おまえの秘蔵っ子を任せる相手として申し分ないだろ、と言っている。そろそろ良い相手を見繕ってやるのも上司としての責務だろ? ――彼はあれでもΩなのだから」
まさか忘れていたわけじゃないよね、と友人は嗤 った。
――正直に言えば、忘れていた。
Ωだと知っていても、Ωだと見ていなかった。
彼は、あくまで自分の補佐で、後輩で、秘書で、――αやβやΩといった括 りからは外れた存在だったのだ。
だからこそ、他の何ものにも代えがたい存在でもあった。
自分が伴侶を得ても、――たとえ『運命の番』と添い遂げても、彼は変わらず傍に居てくれるものだと、……他の誰かのものになるなどと考えたことすらなかったのだ。
「……無自覚もここまでくると滑稽だな」
夢川の肩を叩き辛辣なせせら笑いを残して、友人はその場を立ち去った。呆然とその場に立ち尽くした自分を、最後に哀れむような眼差しで一瞥し、トドメをさすことも忘れずに。
きっかけなど、ほんの些細な事で、――しかし、自分の意識を根底から覆 すには十分すぎるほどに十分な一幕でもあった。
何しろ、その日から、夢川の頭の中は秘書の事で一杯になってしまったのだから。
秘書との出会いは、決して美しいものではなかった。
……美しいどころか、むしろ、これから先もあれほど「汚い」出会い方はないだろう、というくらいには酷い出会い方だったように思う。
もちろん、電流も流れなかったし祝福の鐘も鳴らなかった。
Ωのフェロモンすら、あるのかないのかよくわからないくらい希薄だった。あまりにΩらしくないので、自分はずいぶん長い間、彼のことをβだと勘違いしていたほどである。
彼との出会いは、想像していたどんな運命の出会いとも違った。
かわりに、――深く脳裏にこびりついているのは。
涙と鼻水で……百年の恋も冷めてしまいそうなくしゃくしゃに崩れた汚い泣き顔で。
でも、おかしなことに、やや潔癖症のきらいもあるはずの自分が、鼻水を制服に擦 り付けられても怒りもせずに、汚れた顔を拭くためのハンカチを貸した挙句(持っていないというので)、鼻をかむためのティッシュも提供し、泣き止ませようと偶々 ポケットに入っていたアメを与え、泣いていた理由まで聞きだし、親身になって己の恥をさらしてまで慰めるという…、極めて自分らしからぬ行動をとっていた。
――今になって思えば、そのすべての行動こそが彼が『運命』であることの証明に他ならないのだと気づきもするが、当時の自分にはわからなかったし、それどころか、つい最近になるまでもわかっていなかった。
……いや、厳密に云えば、未だに彼が探し求めていた『運命』であるという確信はない。
この世界のどこかに自分の『運命』は他にいて、別の人生を歩んでいるのかもしれない。
だが、もう、探したいとも思わなかったし、今さら『運命』に出て来られてもきっと彼に恋い焦がれるこの気持ちを覆すことなどできやしないと思えた。
ずっとずっと…当たり前に傍に居て。
ずっとずっと…当たり前にこれからも傍に居るのだと、なぜか信じて疑わなかった自分の補佐役。
平凡なくせに尊大で。
平凡なくせにフォローが上手くて。
平凡なくせに、誰よりも――的確に夢川理という人間を把握していた。
『運命』どうこうじゃない。
そんな言葉じゃ言い表せない。
彼は、なによりも失えない人間だと、……失う危険性を、他のαに奪われる可能性を知り、ようやく自分は自覚したのだ。
彼が、唯一無二の相手だと。
焦りもあってか、それからの夢川の行動は迅速だった。
何しろ初恋の相手の兄と彼はすでに接触している。
恋など――一瞬の出会いでも落ちるものなのだと、他の誰でもない自分がなによりも知っている。
もう遅すぎるだなんて、思いたくなかった。
「君に、結婚を前提にした付き合いを申し込みます」
焦りのあまり、パーティーからたった数日のうちに場をセッティングし、気持ちを明かした。……後に友人にことの顛末を話したら、それはもう盛大に笑われ、しばらくの間、会うたびに話のネタにされたくらいのフライングっぷりだった。……それにしたって、かなり冷静さを欠いていたのは認めるが、あんなにも笑うことはないと思う。「早すぎる!」と何がツボに入ったのやら珍しくも笑い転げていた。隣で元風紀委員長が苦虫を噛み潰した顔をしていたのがやけに印象的だった。
肝心の秘書はといえば……、さすがに笑い転げはしなかったものの、ハトが豆鉄砲を食らったらきっとこんな顔をするだろう、という見本みたいな…なんとも間抜けで可愛らしい顔を披露してくれた。
彼にしてみたら寝耳に水だろうし、都合の良すぎる話だと思う。
案の定、プロポーズをウソ扱いされた上に、ドきっぱりと断られ、あの食い意地の張った彼が食事を中座してまで逃げ去った。
――セコイ手を使った報いかもしれないが、ひどすぎる。
食事と一緒に取り残されるなどという惨めたらしい扱いをされたのは生まれて初めての経験だったが、それ以上に、少しも気持ちが伝わらず考慮の余地もなく断られたショックが大きく、思った以上のダメージを食らっていた。
自業自得だと承知してはいるが、あんまりだという気持ちもあった。
確かに今までさんざん迷惑をかけてきた。
ふらふらしているつもりも騙されているつもりもなかったものの、……結果だけを見れば、これまでの恋愛関係や交際は決して褒められた軌跡を辿ってきてはいない。
彼にしてみたら「ふざけんな、寝言は寝て云え」という気分なのだろう。
しかし、過去の所業を悔やんでも、それは決してなかったことにはできない。
それどころか一番身近にそれを見てきて、あまつさえ尻拭いまでさせてきたのだから……冷たい扱いをされたところで甘んじてそれを受け入れるしかない立場である。
それでも――
やっぱりこのまま帰したくない……と彼の後を追った。
せめて本気なのだと、もう一度伝えたかった。
冷静に、
誠実に、
きちんと、
順番を踏まえて、
求愛するつもりだった。
――なのに
全部。
全部。
――嵐のような情動がすべてを根こそぎさらっていった。
発情している彼に他の男が……たとえαじゃなくても触れていることが耐えがたかった。
一気に理性が弾け飛んだ。
腸 が煮えくり返るとはこういうことかと実感した。
頭に血がのぼって、気づけば普段の自分らしからぬ暴言を吐いていた。
警察官だろうがなんだろうが関係ない。
――それは、私の、Ωだ。
触れるな
何人 たりとも触れること許さぬ
自分の中のどこかが焼き切れる音が聞こえた。
もう…そこからは、ただただ本能に従う獣と成り果てた。
欲求を押さえつけることなどできなかった。
自分のものにしなければ。
早く。
一刻も早く。
そんな、強迫観念にも似た強い欲求に囚われていた。
それでも、何年も言い聞かせられた約束を守ることだけは忘れなかった。
プライドなど捨てて、主のご機嫌取りをする犬のように、乞う。
「くびを咬んでいいですか」
私を番に。
君を番にしたい。
だが、無情にも、その求愛はまたもや断られた。
どこまでも拒絶する愛しい相手に、憎しみさえ募る。
許可なくうなじに牙をたてることこそしなかったが、――それ以外はすべて…おこなった。
思い知らせるように奥の奥まで暴き、幾度も熱い迸りをそこに叩きつけ、己の匂いが浸み込むほどにすべてを穢した。
熱夜を抜け、――まず始めに胸に去来したのは幸福感や充足感ではなく、それとは真逆に位置する後ろめたさや罪悪感だった。
卑怯な真似をしたという自覚は、ありすぎるほどにあった。
これ以上、卑怯者にはなりたくない保身と、……それ以上に、失えないという恐怖に委縮した頭では、稚拙な口説き文句しか思い浮かばなかった。
「好きなんです。君が好きだ。……どうすれば、この気持ちが届くのだろう。どうすれば君に認めてもらえるのか、私にはわからない」
いや、こんなものは口説き文句ですらない。
ただの懇願だ。
捨てないでくれと喉元まで出かけた泣き言を、かろうじて他の言葉に置き換えるだけで精一杯な情けない男だ。
「君だって――私のことが好きなはずなのに」
ただの願望にすぎないそれに返ってきたのは、やはり否定であり、拒絶だった。
それでも、なお縋りつく。
「違いません。私に告白されて発情したんですから。――君は、私が好きなんです」
どうか。
――どうか騙されてくれ。
馬鹿な男の戯言だと嗤ってもいいから。
気づくのが遅すぎたのだとしても。
もう手遅れなのだと、……たとえ体を繋げても無駄だなどと突き放さないでくれと、ようやく見つけた自分の番 に胸の内で乞う。
身勝手な言い分だと、重々承知の上で、乞う。
躰を繋げ、手に入れたと思っても、それは一時のことでしかない。
心が…手に入らなければ、――苦しみは筆舌に尽くしがたいものになるだろう。
高揚が去れば己の所業のバカさ加減にも気づく。
発情に煽られて手を出してはならないものに手を出してしまった。
――その日、しかし、どんなに乞うても欲しい答えは得られなかった。
あれから、どれくらいの月日が経っただろう……。
「くびを咬んでいいですか?」
うなじを舐めながら、相も変わらず夢川は求愛し続けている。
このセリフも、もう何度目になるかわからない。
あの発情期の交わりで、秘書の腹には命が宿った。
番として認めてくれなかった彼も、結婚には承諾してくれた。
子供も生まれて、もう一度「番になってほしい」と願った。
だが、……またしても断られた。
「あんたは惚れっぽいので信用なりません」
――自分の番はしっかり者で、なおかつ手厳しい。
友人である元会長に愚痴ると、彼は笑って云った。
「そりゃ、おまえの手綱を任せてもいいと俺が唯一思った奴だからなぁ。一筋縄ではいかないだろうよ」
「まるで彼のことを自分の手柄のように言わないでください。不愉快です」
「……とんだ焼きもちやきだ」
この友人は頼りになるが、同時にとても鼻持ちならないヤツでもある。
……いつかその余裕そうに笑う友人をギャフンと云わせてやれたらさぞ爽快だろうとついいらぬ野心を抱きそうになった。愛する彼に「返り討ちに合うだけだからやめた方がいいですよ」と諭されなければ罠の一つでも仕掛けていたかもしれない。
「咬んじゃダメですよ」
彼は二人目の子供をあやしながら、めっとこちらを睨んで牽制する。
窓の外は、いつかのように雪景色が広がっていた。
夢のようなきらめきはなかったけれど、彼と子供のいる風景に心は和 らいだ。
そこには夢見たよりも現実的で、遙かに幸せな情景があった。
オアズケをされた犬のように、――待てというのなら、いつまででも待とう。
そのうなじにいつか牙を突き立てる日を夢見て、物欲しげに彼の首筋を舐める日々も悪くないと思うから……。
END
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