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我彼道

一人一人名前が呼ばれ、壇上で卒業証書を手渡される三年生を見守るでもなく、南直彦(みなみ なおひこ)の周囲のクラスメイト達は持ち込んだ小ぶりの参考書を熱心に読み込んでいた。教師も、特別進学コースの生徒ならば仕方がないといった様子で黙殺している。 難関大学の受験に特化した特別進学コース、通称特進の生徒たちは、熱心に部活動をすることが無い分、上級生との縦の繋がりが希薄だった。二学年上の卒業式ともなれば、参加するのは時間の無駄だといった空気が流れている。 そんな中、南だけは、右手をブレザーのポケットに突っ込み、じっと一人の三年生の背中を見つめていた。 視線の先の戸本啓一(ともとけいいち)は、三年生の集団の端の席で、背筋を真っ直ぐにして座っていた。部活を引退してから伸びた髪が厳つさを和らげて、しばらく会わなかった間に一般的な高校生のような見た目になっている。しかしその分、鍛えられた背筋を容易に想像させる真っ直ぐで大きな背中とのギャップがあり、並んだ三年生の中でもとても目立っていた。 とはいえ、目立って見えるのは南の惚れた欲目かもしれない。ずっと剣道着の背中ばかりを見てきたから、南は人混みでも戸本の背中をそれと見つけられる自信があった。剣道部特有のきりっとした背中をした先輩方の中でも、一際凛々しく、広く、美しいのが、元主将の戸本の背中だった。素朴な顔も、大きな声も、竹刀ダコだらけの手も好きだったが、強さや人間としての大きさや男らしさといった自分の憧れが凝縮したような戸本の背中が、南は何よりも好きだった。 しかしその背中は、今日を限りに遠くへ行ってしまう。ほんの少しでも記憶が薄らいでしまわないように、目に焼き付けておきたい。南は瞬きする間も惜しんで、戸本の背中を食い入るように見つめた。一足早く梅雨がやってきたかのような蒸し暑い武道場で、戸本が特別な存在になったあの日から、南はずっとその背中だけを見つめ続けていた。 慌てて踏み込んだ足が道場の床に擦れ、きゅっと高い音がしたかと思うと、足の裏に火を押し当てられたような熱が走った。あっと思った時にはもう遅く、南は戸本の鋭い発声と共に、正面に竹刀を打ち込まれていた。瞬間、防具の面がずり下がり、視界の上半分が藍色に閉ざされた。 「一本!」 顧問の声に、小手を嵌めた不自由な手でずれた面を押し上げ、中途半端に礼をして下がる。すぐさま同じ一年生の鹿嶋がお願いします!と進み出て、戸本の前で構えをとり、気合いの声を上げた。 鹿嶋の声からいつも以上の集中力を感じるのは気のせいではないだろう。主将の戸本に一年生が直接稽古をつけて貰える機会は、そう多くはないのだから。そんなせっかくの機会に防具が緩んで前が見えなくなるなんて、稽古をつけて貰う以前の問題だった。 南は情けない気持ちを押し隠し、殊更無表情を装って道場の端へ行くと、正座をして面を外した。視界も頭部も自由を取り戻して一瞬の清涼感があったが、雨の日の武道場は外より遥かに蒸し暑く、結局むわりとした空気に息苦しくなる。他の部員より全然動けていないはずなのに顔中汗だくで、南は頭に巻いていた手ぬぐいを外すと、顔を拭って溜息を隠した。 高校生になってから剣道を始め、全国レベルまで上達する生徒はそう多くはない。中でも運動に特化したスポーツ科、略してスポ科を擁する三辻(みつじ)高等学校において、初心者が活躍するのは不可能に近い。わかっていたことではあるが、部のお荷物でいるのはやはり辛いものがあった。 南が在籍している特進コースでは、表向きは部活への加入が奨励されているものの、ほぼ全員が文科系部活の幽霊部員だった。スポ科連中が牛耳る運動部は完全なアウェイだし、何より運動に割く時間と体力があれば勉強に回すか睡眠に充てたいと考える生徒ばかりだからだ。ましてや、未経験者で運動部に入部するなど、物好きを通り越してちょっとおかしい奴扱いされてしまう。南だってそうは思うが、せっかくだから一度くらいは運動部で青春の汗を流してみたかったのだ。仲間との切磋琢磨とか、憧れの先輩とか、試合での嬉し涙とか悔し涙とか。そんな陳腐だけどキラキラした運動部員らしい高校生活を、一年間だけでもいいから経験してみたかった。もちろん、口を開けば勉強の事しか言わない両親へのちょっとした反抗心があったのも否定できない。 だから、運動部であればなんでも良かった。剣道部を選んだのは、全国レベルの部活が名を連ねる三辻高校の運動部において、言っては悪いがいまいちぱっとしない戦績だったからだ。体育の授業くらいしか運動経験はないが、身長に恵まれ、運動神経もそう悪くないと自負する南は、そんな剣道部なら練習についていけるだろうと思ったのだ。活躍するのは無理でも、その他大勢くらいの位置で、程々に充実した部活ライフを送れるだろうと気安く考えていた。 しかし、当然その目論見は甘々で、入部一週間で足の裏の皮がべろりと剥け、手のマメは潰れ、剣道の洗礼を受けたのだった。 親や担任の反対を押し切って入部した手前、意地だけでその痛みを乗り越えはしたが、正直なところ失敗したなぁと思っていた。そして一カ月経った今となっては、キラキラした高校生活なんて片鱗さえ見えない。ひとかけらも。一ミリもだ。 走り込みはきついし、防具は臭い。上級生の命令口調にはイラっとするし、同級生には陰口を叩かれている。大体、大きい声を出さないと有効打にならないなんてルール自体が意味不明だ。金切声を上げて竹刀を打ち込むなんて、恥ずかしくてちょっとできない。 文句であればいくらでも出てくるが、良かったことはしばらく考えていてもなかなか出てこなかった。一年生の中で唯一の初心者だった南は、部にも馴染めず、練習についてもいけず、すっかりやる気をなくしてしまっていた。 「南、お前面つけるの下手すぎだろ。軽く打たれただけで面の中で頭が泳ぐとかありえねぇから」 道場の端でもたもたと面をつけ直していると、一年生の練習相手を一通り終えた戸本が近寄ってきた。他の部員たちがあからさまに南を足手まとい扱いする中、戸本だけは主将としての責任感からか何かと南を気にかけてくれるのだ。口調は粗雑だが怒鳴ったりはしないこの先輩は、南が部内で唯一好きな人間だった。 「教えてやるから早く覚えろ」 小手を嵌めた手で頭をぐりぐりやられ、南は思わず背筋を伸ばして硬直してしまった。同級生はもちろん、先輩からこんな風な親しげなやり方で触れられることなどまずない。防具の中でも一際臭う小手で人の頭に触るなんてガサツだな、などと思う反面、やっぱりこういうのは結構嬉しい。求めていた青春感があってほんの少しだけ景色がキラキラするし、くすぐったい気持ちになる。 それにしても、確かに自分だけしょっちゅう面を締め直しているなとは思っていた。南が不器用だというのも事実だが、未経験者が一人だけだったので、基本中の基本である防具のつけ方の説明を、顧問がおざなりにしたという事情もある。他にも覚えなくてはいけないことが山ほどあったので、何となく面が緩いなと思いながらもそのままにしてしまっていたのだ。 「まず手ぬぐいの巻き方から緩いんだよ」 道場の端に並んで座り、戸本は手早く面と小手を外すと、すっと床に置いた。その上、頭に巻いていた手ぬぐいまで外し出す。わざわざ一から見本を見せてくれるようだ。驚いてまじまじと見つめたが、早速広げた手ぬぐいを頭に被ったせいでこちらが見えていないのか、戸本は気づかずに解説を始めた。 「まず俯いてこうやって被ったら、後頭部から手ぬぐいの端を耳の上に持って行くだろ」 普段は自分の手ぬぐいをつけるので精一杯で一度も考えたことがなかったが、俯いたこの時だけは、戸本といえども無防備だった。身に着けた防具とは対照的に、討ち取ってくれと言わんばかりに急所の首が晒されている。戦国時代でもあるまいし、急所を晒していけない理由はないのだが、防具でしっかり守られた胴体との対比になぜか目を奪われた。部内で誰よりも強いから主将で、だけど全国レベルにはなかなか届かなくて毎日一生懸命稽古をしている戸本の急所。見てはいけないものを見たようでどぎまぎする。 それでも目を逸らせずに凝視していると、俯いたままの戸本がギロリとこちらを見た。 「ほら、一緒にやってみろって」 慌てて自分の手ぬぐいを広げ、俯いて戸本のやり方を真似る。手ぬぐいに覆われない耳が、何だか少し熱くなった気がした。 戸本は解説しつつ、南によく見えるようにゆっくりと手拭いを巻いていく。運動部らしく飾り気がなく、無骨でガサツにすら見えるのに、その手付きは無駄がなく美しい。 「この左右を交差する時に緩まないようにするのがポイントな。で、端をここに差し込む」 戸本が自分の頭に巻いた手ぬぐいは、一分の隙もなくぴたりと額に張り付き、端を差し込んだ部分も一切浮きがない。南も真似をしてみるが、端を差し込む時にどうしても土台の部分が緩んでしまった。 「お前不器用だなぁ。貸してみろ」 呆れた様子で南の頭から乱暴に手ぬぐいを毟り取ったかと思うと、戸本はなぜか自分の手ぬぐいも再び外し、南の後ろに立った。そして、戸本自身が使っていた手ぬぐいを、覆い被さるようにして南の頭に巻きつけていく。かなり汗を吸ったのだろう、手ぬぐいはしっとりとした感触がして、南の肩がびくりと震えた。 「汗臭ぇだろうけど、こういう使い込んだ手ぬぐいの方が柔らかくて扱いやすいんだよ。お前のはまだ糊が効いてて固いから交換してやる」 防具の独特のにおいに覆われている中に、戸本のかきたての汗のにおいがふわりと降ってくる。硬直していると、ぐっと手ぬぐいを引っ張られ、頭が(かし)いだ。予想以上の強い締め付けだった。 「こら、しゃんとしてろ。ぐらぐらすんな」 南のこめかみに添えられた戸本の手は、湿っているのに皮膚の下が固かった。無意識に指先で自分の手の平を押し、感触を比べてしまう。マメが潰れた手の平は自分が少しは頑張っている証拠だと思えて密かに誇らしかったのだが、戸本の手に比べたら格段にふにふにと柔らかい。一朝一夕の努力ではどうにもならないのは、勉強もスポーツも同じだと思い知らされるようだった。 「ほら、これでしっかり留まってるだろ。前に垂れた部分を後ろに持って来たら完成だ」 目の前を覆っていた手ぬぐいがふわっと持ち上げられ、いつもの道場が目に飛び込んでくる。しばらく俯いていたせいか、道場の照明がやたら明るく目に染みた。 「一回お前の面つけてやるから、感覚で覚えろ。ほら、早く被れ」 急かされて面を被ると、戸本の手が面の額の辺りから垂れている紐を取り、後ろにぐっと引っ張った。 「側面に沿って持ってくる時に、この辺な、左右の高さが同じになることと、紐がねじれないことに注意する」 言いながら、指で面の側頭部をトントンと叩き、その位置に紐を沿わせたかと思うと、後頭部で手早く交差させてぐっと強く締め上げた。 その瞬間、ぎゅっと心臓を鷲掴みにされた気がした。 「で、またこの紐を左右均等の力でだな…」 戸本が紐をしゅるしゅると手早く捌くと、紐の先が袴に包まれた南の腰をぱしっと軽く叩いた。痛みとは言えないほどの軽い衝撃だったが、南は体をぴくりと小さく震わせた。背後に立つ戸本の気配への緊張と相まって、全身がやたら敏感に小さな刺激を捉えてしまう。南は面の中で目を見開き、腰をもじつかせずにこらえるのが精一杯だった。 「結ぶときに緩みがちだから、注意な」 再び後頭部をぎゅっと締め上げられ、南はもう自分に訪れた唐突な変化を気のせいだと否定できなくなっていた。防具の前垂れの存在をこれほどありがたく感じたことはない。戸本に頭を締め上げられ、紐で軽く打たれて、南は自分でも信じられないことに、明らかな興奮と胸の高鳴りを覚えてしまったのだ。 「最後に紐の先が長くなりすぎてないか確認する。な、簡単だろ?」 戸本は幸いにも南の様子には気づかず、仕上げとばかりに面の上から軽くぱんっと頭を叩いた。全く痛くはないが、軽い音が面を通して振動となって耳に流れ込む。南は思わずその音を意識で追い、耳の中で何度も木霊させた。 締め上げられた頭がわんわんと鳴る。ようやく自分の体温と馴染んできた手ぬぐいに染み込んだ戸本の汗が、面の中でじわじわと香り続ける。南は今、眩暈のような興奮を覚えていた。 「どうだ?」 少し自慢げな響きで面の中を覗き込む戸本に、「いい感じです。どうもありがとうございます」と答えた声は少し掠れていた。面の中で影になっている南の顔は紅潮し、その唇は足りない酸素を求めるように半開きになっていた。 南はその日から戸本の姿を目で追い続けた。恋に落ちた瞬間をはっきりと意識したのは生まれて初めてだった。相手は男だし、あの日無性に燃え上ってしまったのは酸欠のせいかもしれないと打ち消してみたが、無意識に目で追ってしまうのだから仕方がない。この目が脳が戸本の姿を追いたがって、その姿を捉えればじんわりと喜びが湧いてくるのだ。 けれど、玉砕が目に見えている告白をする気なんてない。部内で気まずくなるのは嫌だし、気持ちにケリをつけてさっさと次の恋に向かおうとも思わない。孵るはずのない恋の卵は胸の中で大事に温めて、毎日を頑張る糧にする方がよほど建設的だ。そう思って毎日こっそり戸本の姿を目で追っていたので、自然と背中ばかりが目に焼き付いた。 見れば見るほど、戸本は好ましい先輩だった。インターハイ出場を誰よりも本気で目指している戸本は、日々の努力を惜しまず、それでいて後輩の稽古の様子にもきちんと目を配っていた。いつでも凛としたその背中は、いつのまにか恋しいだけでなく、南の憧れになっていった。 そんな戸本に交換してもらった手ぬぐいは、当然南の宝物だ。洗わずにとっておこうかとすら思ったが、黴や菌が繁殖するとさすがにまずいので泣く泣く洗い、肌身離さず持ち歩いた。勉強の合間に取り出して見つめれば気合いが入ったし、稽古でも毎日使った。 もちろん毎日の夜のお供にもしてしまったわけだが、好きな相手の汗が染み込んだ私物を手に入れたら、男なら誰だってやるだろう。周りの奴らに確認したことはないが。 戸本の手の感触を思い出しながら、少しきつすぎるかと思うくらいの強さで頭を締め付けながら手ぬぐいを巻けば、それだけで体が熱くなる。ふと我に返るとちょっと変態っぽいなとは思うのだが、誰に迷惑をかけているわけでもなしと開き直った。そのおかげであっという間に上手に巻けるようになったのだから、むしろいいことだと声を大に…はしないが、結果的にプラスになっている。 本当は、手ぬぐいだけでなく面もつけたかったのだが、さすがに学校の備品を家に持ち帰るわけにはいかない。考えた挙句、誰よりも朝早く道場に行って、面をつけたり外したりしてうっとりするのが日々の楽しみになってしまった。当然、面をつける腕は上がり、それだけは一年生の誰よりも手早くなったのだから、誰に文句を言われる筋合いもない。もちろん戸本に内心を知られなければの話だが。 しかし、計算外だったのは周りの反応だった。毎朝早くから真面目に稽古していると思われ、部員の当たりが柔らかくなっていったのだ。最後のインターハイを目指して稽古に励む三年生は忙しく、一年生を直接指導してくれることはほとんどなかったが、代わりに二年生や同級生が何くれとなく声をかけてくれるようになった。 「お前、最近すげー頑張ってんじゃん」 他の一年生に混じって大きな掛け声をかけながら素振りをしていると、通りかかった戸本が歯を見せて笑い、またあの小手のついた手で面ごと頭をぐりぐりしていった。顔が紅潮し、ますます掛け声にも気合が入る。そんな日は夜も眠れないほど舞い上がり、ベッドの上で手拭いを折り畳んだり頭を締めてみたり、頬ずりしたりしてしまうのだった。 そんな生活がしばらく続き、自分としては充実感が漲っていたのだが、刺客は別方向から現れた。稽古で時間と体力を取られれば、どうしても勉強に割く時間は減ってしまう。徐々に下がる成績に、担任に文科系の部活に変わるように促されてしまったのだ。 戸本のことを抜きにしても、人生で初めて運動を頑張れている自分が結構好きになっていたので、ショックは大きかった。それに、三年生の戸本と一緒に稽古ができるのはあと数か月しかない。 せめて戸本が卒業するまでは部活を辞めさせられたくないと、その日から睡眠時間を削って勉強をした。寝不足で痛む目の奥を癒そうとするように戸本の手ぬぐいを押し当て、明日も武道場に行くんだ、戸本に会うんだと気力を奮い立たせてペンを走らせる。 しかし睡眠不足と疲労は、確実に南の精神を追い詰めていった。 限界は唐突に訪れた。インターハイ地区予選を間近に控えた、西日が射し込む茹だった武道場。 連続で打ち込みをする耐久稽古の最中、声が震え、悲しくもないのに涙が溢れてきてしまった。面に覆われて拭うこともできず、汗に紛れさせようと何度も頭を打ち振るう。耐久稽古が終わる頃には涙は止まっていたが、南は他人事のように、あぁ、しんどいのかも、と思った。 「南、ちょっと残れ」 他の部員の耳を憚ってか、声音は軽い調子ではあったが、道着を脱ごうとした南に声をかけてきた戸本の目は笑っていなかった。何か注意を受けるのかと内心ビクビクしながら、他の部員が部室を出ていくのを馬鹿のように突っ立って見送った。 戸本と南を残して誰もいなくなると、戸本が少し困ったような表情をした。その表情に、もしかして自分の気持ちがばれて、嫌がられているのではないかと青くなる。気持ち悪いから俺を見るのをやめろとでも言われたら、自己嫌悪で死にそうだ。しかし、戸本の言葉は南の予想を裏切るものだった。 「お前、無理してるだろ。最近顔色悪かったし、踏み込みも甘くてふわふわしてる。あんまり寝てないんじゃないのか」 まさかそんなことを指摘されるとは思わず、南は焦って「そんなことないです!大丈夫です!すみません!」と勢い込んで言い返してしまった。 「じゃあ、なんで今日泣いてた」 南の抗弁を遮るように切り返されて、ぐっと詰まる。まさか見られていたなんて思わなかった。面もつけていたし、誰にも気づかれていないと思っていたのに。 見間違いじゃないですか、ととぼけようかとも思ったが、自分の涙に気付いて気にかけてくれていた戸本の気持ちを踏みにじるようでできなかった。自分を見ていてくれて嬉しい気持ちと、やはり特進はダメだと思われる恐れと、日々無理を重ねてきた苦しさと、同時に様々な想いが込み上げて、また涙が溢れてきて俯いてしまう。感情を制御できないのは精神的に追い詰められている証拠だと冷静に考えられるのに、涙は止まってはくれなかった。 「すみません……」 結局謝罪の言葉しか出てこなくて、持っていた手ぬぐいを握りしめる。勉強中も常に傍らに置いて、眠気を堪えて頑張るよすがにしていた戸本の手ぬぐいは、気づけば印刷された文字が読めない程薄まり、くたびれていた。 「謝らなくていい。お前がすごく頑張ってるのは見てればわかるし、成績がいいのも知ってる。ちょっと心配になって特進の校舎まで順位の貼り出し見に行ったからな。だからその頑張りを応援したいと思ってたけど…」 戸本は一旦言い淀み言葉を切ったが、結局「今日の様子を見ちまったらな…」と続けた。 遠いスポ科の校舎から、わざわざ順位表を見に来てくれたなんて知らなかった。頑張りを認めてくれて、応援してくれていたなんて知らなかった。 「っ……」 堪えきれずまた涙が込み上げる。 「体を壊したら元も子もねぇだろ。剣道は大学に入ってからでもできるんだし」 これから言われる言葉は予想がついたが、聞きたくなかった。俯いて肩を震わせる頭に、大きな手がそっと乗せられた。 「今は勉強に専念しろ、な」 竹刀ダコでごつごつした手が、驚く程優しく、まるで鳥の雛にでも触れるように注意深く頭を撫でる。あの大好きなぐりぐりではない、力加減を遠慮したその触れ方に、自分が戸本の目にどれほど余裕なく映っているのかを思い知らされた。 戸本のようになりたかった。戸本に認めて貰えるくらい、強く逞しい男になりたかった。けれど、現実の自分はあまりにもふがいない。 もっと頑張れますと口にして、毎日道場へただ足を運ぶことは可能だったが、集中して稽古に打ち込める気力と体力をもたせる自信は、南にはもうなかった。 「…明日、退部届を出します」 顔を上げずに言ったから、それを聞いた戸本の顔が痛ましそうに歪んだのは見えなかった。 「…そうか」 頭を撫でてくれる手も、戸本の声も、変わらず優しい。けれど、できればこんな風に頭を撫でてもらえるのは、練習試合で一勝でも納められた時がよかった。こんな、不甲斐ない後輩への同情で最後に優しくされたら、あなたが好きでしたとすら言えないじゃないか。 「大学に入ったら…、絶対また剣道やります。それでっ…うぅ…先輩の大学と、試合できるように、裏工作でもなんでもします。その時は、強くなったって言わせてみせますから…!」 詰まりがちな言葉に、頭を撫でてくれていた戸本の手がぴたりと止まった。身の程知らずに何を馬鹿なことをと思われたのかもしれないが、それでも南は本気だった。 「……そうか」 たっぷりと間が空いてから、戸本のどこか諦めたような声が聞こえた。そして頭を撫でてくれていた手が肩に降りてきて、ぽんぽんと軽く叩かれる。 「じゃあ俺も、南が裏工作までして戦いたがっただけあるって言われるように、きっちり強くなっとかなきゃな」 言葉は冗談めかしているが、どこか決意を滲ませた声で戸本は言った。戸本は多分、こういう場面で社交辞令は言わない。本当にまた竹刀を握って再会する日のことを思い描いてくれているのだと思うと、南の涙はいつまでも止まらなかった。 校舎の異なる戸本とは、退部してからほとんど顔を合わせていない。始業式や終業式といった、全校生徒が集まる場所で姿を見かける程度だった。あちらが気づけば軽く手を上げてくれたりはしたが、それだけだ。 それでも南は戸本を想い続け、戸本の手ぬぐいと再会の約束だけを支えに勉強に励んだ。会えない相手をこうも想い続けられるものかと自分でも驚いたが、これまで女子に対して抱いたことのある即物的な恋心と異なり、戸本の背中が努力の指針となっていたから、より強く想い続けられたのだろう。 しかし、そんな戸本の背中は、今日を限りにもっと遠くなってしまうのだ。 いよいよ戸本の名前が呼ばれ、「はい!」とよく通る凛とした声が体育館に響いた。真っ直ぐな背中が、気負いなく壇上を上がっていく。校長から卒業証書を手渡される姿は堂々としていて、一歩後ずさって折った腰は他のどの卒業生より礼の精神が現れて美しかった。その挙動の一つ一つを目に焼き付けようと、南は瞬きもせずに遠くから見つめ続ける。視界がぼやけるのは、昨夜遅くまで勉強していたからだ。決して涙なんかじゃない。 ふと、壇上から降りてくる戸本がこちらを見た気がした。この距離で目が合ったとも思えないのに、心臓が跳ねる。 戸本は短い階段をそのまま下り、上体を揺らさない美しい歩き方で自分の席に戻った。他の三年生は皆そのまま席についていたが、戸本は座る前に、すっと壇上を見た。そして壇上にかかった校章旗に向かい、深々と一礼をした。 インターハイの会場で振られることのなかった校章旗。感謝、無念、惜別、覚悟。 その背中が語る溢れんばかりの想いに、ついに堪えきれずに南の目から涙が零れる。それは戸本の背中がこれまで見せてくれた礼の中でも、一番美しい姿だった。この先どんなことがあっても、たとえ戸本と二度と会えなかったとしても、一生忘れないだろう鮮烈さでその背中は南の目に焼きついた。 体育館から退場した三年生を、後輩たちが取り囲む。絶対連絡してくださいよ、マジで寂しいです、絶対留年すると思ってました。笑い声や涙声で溢れた廊下を、特進クラスの在校生達は冷めた様子で足早に教室に戻っていく。 「戸本主将!俺も主将の後追っかけて大学行きますから!」 耳に飛び込んできた鹿嶋の鼻水交じりの声に、思わず止めそうになった足を、南は意思の力で前に踏み出した。今はまだ、あの輪には戻れない。やるべきことをやり切って、もう一度竹刀を手にするまでは。その時にはきっと、再び戸本との道が交わるはずだ。 南は振り向きもせず、手にした参考書に目を落として歩き去った。ポケットの中の手ぬぐいを、強く強く握りしめて。

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