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卒業まで、あと二年

 開け放った正面の窓から、生温い風が舞い込んでくる。それを顔面で受け止めた途端、じわり、と僕の目頭が熱くなった。  涙が出そうになるのは、二時間前に終了した卒業式の余韻か、それとも、花粉症によるものか。  さて、どちらだろう、と思っていたら、僕の左耳に、はくちゅん、と可愛いクシャミが聞こえてきた。 「ん〜……せんせー……窓開けないでよー。俺、花粉症なんだから……くちゅっ」 「こら、犬飼くん、布団の中でクシャミしないで下さい。シーツが汚れるじゃないですか。綺麗にしたばかりなんですけど」 「えー、だって出ちゃうのは仕方ないじゃ……くっしゅ!」 「……全く」  やれやれ、と肩を竦めた私は、ティッシュボックスを手に取った。  キャスター付きの椅子に座ったまま私が向かったのは、ベッド。空気の入れ替えのため、普段掛かっているカーテンは開けられている。 ベッドの上に、こんもりとした膨らみが一つ。もぞもぞと焦ったく左右に揺れた膨らみから、ひょっこりと犬飼くんが姿を見せた。 「ズズッ、洗いたてのシーツ、めっちゃ気持ちいいね」 「寝そべりたくなる気持ちは分かりますよ」  私は苦笑を浮かべながら、ティッシュボックスを彼に差し出す。  数枚のティッシュを抜き出し、くちゃくちゃにして鼻をかむ犬飼くん。  ティッシュの隙間から顔を覗かせる、赤い鼻先が可愛い。 「じゃあ、先生も寝そべろうよー。布団の中でランデブーしよー」 「しませんよ。仕事中ですから」 「してないじゃん」 「運動部の生徒がいつ顔を出すか分かりませんから、眠る訳にはいきませんよ。それに、今だって一応、君という生徒の相手をしている最中ですからね。これも立派な先生の仕事です」  マジメ、と犬飼くんがつまらなそうに呟く。  直後、ふわぁ、と溢れたのは大欠伸。ほんの二時間前までは涙を流すのに忙しかったタレ目は、頭を撫でたらすぐに閉じてしまいそうだ。 「仕事ならさー、構ってよ」 「構ってあげてますよ。綺麗に整えた布団を使わせてあげてますし、会話してあげてます」 「生徒としてじゃなくて、彼氏として!」 「それは仕事の範疇じゃないです」 「うー、じゃあ生徒としてでいいから、イチャイチャさせろ!」 「いいんですか、それで」 「先生、意地悪過ぎ! 俺、先生成分が足りないの! 補給させてよ! 癒してよ〜! 保健室の先生でしょー?!」  犬飼くんが膨れっ面で、ジタバタと手足を動かす。  寝転んでいたせいで、「めっちゃ頑張った!」髪型はくちゃくちゃ。卒業式の時は普段のだらしなさが嘘みたいにちゃんとしていた制服もネクタイもぐちゃぐちゃ。でも、右胸の校章の下、淡いピンクの造花だけは卒業式と変わらず、花弁の一枚一枚がぴん、と張っていた。 「……本当、似合いませんね」 「んあ?」 「いえ、何でも」  軽く首を振ると私は椅子から立ち上がり、きょとん、としている犬飼くんの隣に腰掛けた。  犬飼くんのくちゃくちゃな頭をひと撫でしてから、自分の膝をぽんぽん、と叩いてみせる。  すると、犬飼くんは(はしばみ)色の瞳をキラキラさせて、私の腰に抱きついてきた。 「あの、私がしたいのは膝枕なんですが」 「ようやく恋人が構ってくれて嬉しーっていうスキンシップだよ、気にすんなって」 「今日は一段と激しいですね?」 「せんせー、俺のホントの激しさ、見せちゃおっか?  こんなの、子供のお遊びだって思い知らせてあげーーっ痛」  ニヤニヤして近づいてきた彼の額に、小さくデコピンをお見舞いする。 「子供のくせに、生意気です」 「えー、卒業したのに、まだ子供扱いなの? もう先生と生徒の関係じゃないし、よくねー?」 「三月一杯は、まだウチの高校の三年生ですからね」  私の膝の上で目を細める犬飼くん。その額を撫でながら、私はにっこりと笑う。  ここの生徒になら誰にでも向ける、私の「養護教諭」としての笑顔。犬飼くんが嫌いな笑顔だ。  ほら、可愛い眉間に皺が刻まれた。 「俺、先生のそういうとこ、好きで嫌い」 「好き、も入ってるなら、いいじゃないですか」 「よくないよ。半分嫌いだし」 「知ってますよ」 「……俺、学校に来るの、今日で最後なんだよ」 「それも知ってます。明日から、都内で生活するんですよね」 「先生と、会えなくなる」 「君が里帰りしたら、会えます。私も、できるだけ、都内に遊びに行きますよ」 「会えない時間の方が長くね?」 「物事には限界があります。でも、善処します」 「保健室で、先生に甘えたい時は?」 「卒業生として、遊びに来て下さい」 「甘えられる?」 「……長時間、卒業生が保健室にいるのは、さすがに怪しい気がしますね」 「……」 「よしよし」 「だから子供扱いやめてってば」  さっきよりも深々と刻まれた眉間の皺を撫でていたら、犬飼くんにべしっと叩かれてしまった。 「嫌でした?」 「子供扱いがね」 「すみません、つい」 「いーけど。せんせー、俺と付き合うまで恋人ができたことない、魔法使い一歩手前のヘタレ童貞だもんね? 恋人扱いがヘタクソでも俺、気にしてないから」 「そこまで言いますか」 「言うよ。大体さあ、この二時間さ、俺、ずっとベッドにいたでしょ? 一応、俺、先生のこと誘ってたんですけどー?」 「泣きつかれて、ダラダラしてただけじゃないんですか?」 「うっわ、ひでー。これだから童貞は」 「ダラダラは訂正します。でも、君、卒業式の感動が忘れられなくて、ベッドに入っても泣いていたでしょう? そんな君に手を出すなんてできませんよ。それに言ったでしょう? セックスは二十歳になってからです」 「俺、処女じゃないんですけど」 「それはそれ、これはこれです。私は今までの『君のお相手』のように、お遊び感覚でそういうこと、したくないんですよ」      私は犬飼くんに叩かれた手で、再び彼の額を撫でる。 「……意外。てっきり、先生と生徒だから、とか、そういうこと言うかと思った」 「今日で、その建前は卒業しようと思いまして」 「それなら童貞も卒業しろよ。あと二年て、先生、三十路超えちゃうじゃん。魔法使いじゃん」 「魔法使いの私はダメですか?」 「……なんか、手を出したくてもヘタレだから出せなくて、それっぽい言い訳してない?」 「何とでも」 「……二年かー」 「待てませんか?」 「んーん。先生を待てなくて、他に男を作る俺……は想像できないから」 「私は容易に想像できますけどね」 「えー、どんだけ信用ないの、俺」 「仕方ないでしょう、私と付き合う前の君の爛れっぷりを知っているんですから」 「ま、仕方ないよね、過去は。なかったことにはできないし」  へらり、と笑う犬飼くん。その顔が可愛らしくて、でも少し憎らしくて。  犬飼くんの額に当てていた手を、彼の鎖骨に滑らせた。中指が、第三ボタンまで外れた彼のシャツの中へ、少しだけ潜り込む。  犬飼くんのヘラヘラ笑いは、消えない。 「手、出せばいいのに」 「そういうこと、言わないで。これでも私、我慢してるんですよ」 「我慢してる? そういう風には見えないけどなー。もっと分かりやすく見せてよ、我慢してるとこ」 「煽らないで下さい。犬飼くん、私は本当に君が好きなんだ」 「……うん」  ふにゃ、と子供みたいに笑うと、犬飼くんは瞼を下ろした。  薄く開いた唇に、私は自分のそれを重ねーー。 「くしゅん!」   唇が重なる寸前、どちらかともなく、飛び出したクシャミ。  ぱち、と開かれた犬飼くんの目と、しばらく見つめ合う。  ふと、生温い風が、つん、と私の唇をつついた。 「せんせー、俺さ。待つの、そんなに嫌じゃないんだ。実は」  淡く微笑んだ犬飼くんが、そう呟く。その言葉を聞いて、私はようやく彼にキスをされたのだと気づいた。 「キスした後に言うセリフじゃないですよ。大体、言ったじゃないですか、キスは大学生になってからって」 「先にしようとしたのは先生だろ? どっちにしろ、その約束は破られる運命だったんだよ」 「う……」 「キスしたら、きっと、それだけじゃ我慢できなくなって、先生が何と言おうとも、セックスしたくなるかもって思ってた。でも、今の触れ合いだけで、嬉しすぎて満たされたんだ。あ、これだけで、俺、あと二年待てそうかもって。  俺、こんなに長く焦らされるの、好きじゃなかったんだけどなあ。今は焦らされることが嬉しいっていうか。あと二年、二年待てば、先生に抱いてもらえるんだって、ドキドキしてる。その待つ時間が、気持ちいいんだ」 「……だから、煽らないで下さいよ……もう」  ため息を一つ零した後、今度は私から彼の唇に触れる。 「二年……長いですね……」 「うん。でも、待った分、もっと気持ちいいかもよ? そういうの、先生は嫌い?」 「嫌いだったら、きっと、今日までの三年間、君を好きで居続けられませんでしたよ。あと二年くらい、待てますよ。上等です」 「ん。俺も、二年後が楽しみだよ」  起き上がった犬飼くんの右胸で、造花が小さく揺れた。

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