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第1話
(いつもより呑み過ぎたな。まぁ普段、ワインなんて呑まないからな)
そんな事を考えつつ、敏樹 はレストランの出口で上着を受け取った。従業員から深々とお辞儀をされて、なんだろう、逆に戸惑うな。今夜入ったレストランでは、他にも様々なおもてなしを受けた。
身体が火照 り、頭も朦朧 としてきた敏樹は、従業員に夕食の代金を支払う樋口 の後姿をぼうっと見つめていた。
「じゃあ、行こうか。高塚 くん」
勘定を済ませた樋口に声を掛けられた敏樹は、
「はいっ」
はしゃいだ返事で出口へと向かう。この前の一件から、樋口は敏樹を「きみ」でなくちゃんと名前で呼ぶ事が増えてきたから。
「ごちそうさまでした。和洋折衷 な料理で、初めて食べる食材もあったけど、ボリュームもあって美味しかったです」
樋口の車の助手席に乗ると、自分も代金を払おうと財布を探る。その敏樹の手首を、樋口がぎゅっと掴んだ。
「いや……今夜は、きみは払わなくていいよ」
弱々しく笑いながら、樋口は首を横に振る。
「どうしてですか? だって、このレストラン……高級なお店でしょう? それに自分は結構な量のワインも呑んだし。あっ、ホテルに着いたら払いましょうか?」
予想外の言葉に、敏樹は問いを重ねるが、樋口はまた首を横に振った。
「いいや、今夜は、ホテル代も、自分に払わせてほしい」
真剣な口調で樋口は頼む。その眼も懇願 の色が強い。
そもそも今夜の樋口は、最初から奇妙だった。
「会いたい」というメールも珍しく樋口からだったし。敏樹の行きたい場所を訊くより先に、普段は行かない洒落たレストランへと真っ直ぐ向かった。樋口自身も落ち着かない様子だったから、きっと初めて入った店なのだろう。
そして、年下の敏樹からの「食事代やホテル代は割り勘で」という言葉も、普段はすんなりと受け入れるのに。
「樋口さん、自分になにか隠してる事でもあるんですか?」
敏樹が厳しい口調で訊ねると、車のキーを持った樋口の手が止まった。
「もしも、奢 って機嫌良くしておこう、とか考えてるなら、それは逆効果ですから。これで後から嫌な秘密をばらされたら、もっと悲しくなります!」
酔った勢いもあるだろう、駄々をこねる敏樹の頭を樋口は大きな掌で抱えると、ぽすん、と温かい身体に引き寄せた。
「いいや、特に秘密は無いよ。でも、最初に『今夜は自分が奢る』って言っておけば良かったね……ごめんよ、不安にさせて」
こうしてすぐに謝るのは、樋口の良さでもあり、ずるい所でもある。
「じゃ、じゃあ、なんで言わなかったんですか?」
樋口の胸元に顔を埋 めて、敏樹は尋ねる。
「いや、なんとなく、恥ずかしくて……日にちもズレたし。それに、若いひとへのプレゼント、っていうには、今風なレストランしか思い浮かばなくて」
恥ずかしい? 日にち? プレゼント?
はてなマークが渦巻く敏樹の脳内に、ふと、ひとつの単語が浮かんだ。
「もしかして、バレンタインだから?」
敏樹の問いに、樋口は一瞬口を噤 んだが。しばらくして、あはは、と恥ずかしそうに笑った。
「だってさ、自分はクリスマスも何もしてやれなかっただろ? そしたら最近は、友チョコとか逆チョコとか、色々あるって聞いて。でも高塚くんがチョコレート食べてるのって見たことなかったから。それにお酒好きなら、甘いものは苦手かもしれないし。でも『バレンタインだから何が欲しいですか』なんて訊くのもおかしいし」
照れを胡麻化 しているのか、あたふたと早口で語る樋口を見て、敏樹はふんわりと心地良くなった。
「じゃあ、行こうか。あっ、そうだ、今夜はどこに行きたいか、まだ決めて……」
「ちょっ、樋口さん! ちょっと待ってて下さい!」
樋口を疑っていたのが申し訳ないのか、不安から解放された喜びからか、助手席から降りた敏樹は、レストランの入り口へと早足 で向かった。
「お待たせしました!」
助手席のドアを開けた敏樹が手に持っている小さい箱を見て、樋口は何か勘付いた様子だったが。樋口特有の大げさな遠慮や謝礼が出てくる前に、敏樹は勢い良く語り始めた。
「さっき置いてあるの見たときから、美味しそうだな、って思ってたんです。あそこのお店のパティシエが作ってる、チョコレート菓子! 自分も甘いものは好きだし。樋口さんはどうですか?」
「う、うん。自分も好きだよ。でも、高かっただろ?」
「それはレストラン代も同じでしょう。バレンタイン、ってどんな日か自分もよく知らなかったけど。恋人同士で美味しいもの送り合う日、にしちゃえばいいかな、って」
にこにこと喋る敏樹を見て、樋口も笑う。
(勢いで買っちゃったけど、このチョコレート、すぐ溶けそうだな。箱には保冷材も入ってないし)
そんな心配から、敏樹はチョコレートをひとつ、ぱくっと口に含むと、勢い良く唇に唇を押し付けた。
いきなりで驚いたのか、身体が強張った樋口の頭を敏樹は両手で支える。そして、さっき頬張 った甘く蕩 ける物体を、口付けながら舌で相手の口内に押し込んだ。
「……んんっ、ふぅ……」
突然で苦しかっただろうが、樋口も甘さを味わいながら、敏樹の舌にも甘味を分け与えるように、じっくりと舌を絡ませる。
「……ふっ……はぁっ」
ふたりの口内のチョコレートが全て溶けてなくなると、樋口の唇はゆっくりと離れた。
「美味しかったですか?」
敏樹は悪戯っぽく笑う。
「うん……ありがとう」
それだけ応えると、樋口は敏樹を愛でるように微笑んだ。
「今夜は……真っ直ぐ……ホテルへ向かって下さい」
その視線にぞくっとした敏樹は、自然とわがままを口にする。
さっきのキスの余韻が冷めないうちに、また幾度もこのひととキスがしたい。それが敏樹の望みだが、樋口はなにも尋ねず、微笑みながら車のエンジンを掛けた。
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