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君の声 5

 丈……本当にごめん。  そう思いながら受話器を一方的に置いた。その日は父に言われた通りに定時で部署を出た。いつもならバイクで丈の待つテラスハウスに帰るのに、今日からは違う場所へ帰る。そう思うと足取りが重い。  上の階から降りて来たエレべーターにぼんやりと乗り込むと、そこにはなんと丈がいた。心配そうな瞳で俺のことを見つめてくる。 「あっ」  他にも帰宅する人でエレベーターは満員電車のようにぎゅうぎゅうで、人の波に押され丈の目の前に立つ形になってしまった。  うっ……気まずい。  顔を背けようとしたら、そっと手を繋がれた。  丈の温かい手…俺が大好きな温もり  くっ──  込み上げてくるものが胸に詰まる。  丈が誰にも気が付かれないように手を握ってくれたのに、俺はその手から逃げようとする。それでも包み込むように丈の手が俺の手に重なっていく。その逞しい……俺のことを沢山愛してくれた指を絡ませて、俺を落ち着かせようとしてくる。  駄目だ!触らないでくれ!  俺は汚れている!  この手で昨夜父さんに何をさせられたのか。  強要されたことは死んでも言えないし、知られたくない。  離さいないといけないのに……丈の手の温かさが心地良いから、いつまでも繋いでいたくなってしまうよ。  エレベーターが地上に降りるまでのわずかな時間が、永遠に続けばいいのにと願う時間だった。人がいるので丈も言葉は発しなかった。ただその手で「大丈夫か?何か重大な心配事があるのだろう?私に話して……」と囁いてくるようだ。  話せない。何も言えない。だって……言えるようなことじゃないだろう。  俺は丈にあの姿だけは、見られたくない。愛している丈にだけは、無理矢理、丈以外の人に抱かれた姿なんて見せたくない。まして相手が義理の父親だなんて……  だから何も聞かないでくれ。それに今ここで俺と話しては駄目だ。会社は父の監視下だ。  意を決しエレベーターの扉が開くなり、俺はその手を振り切って人混みをすり抜け駆け出した。そして会社の前に停まっていたタクシーに急いで乗り込んで逃げた。  遠くから丈の声が聞こえた。 「洋っ!待てよ」 「早く出てください」  後ろをそっと振り返ると、残された丈がどんどん小さくなっていくのが見えた。  出来ることなら……あの手を離したくなかった。  丈に話したかった。ずっと触れていたかった。  何も出来ない無力な自分に腹を立て、爪の痕が付くほど拳を強く握りしめ、むなしく腹立たしい感情を必死に呑み込むことしか出来なかった。

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