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時を動かす 17
階段を下りながら考えた。洋だって、かなりの覚悟が必要だったはずだ。自分を凌辱した義父を許そうとするのも、学生時代に強姦されそうになった相手を許そうとするのも……そんな苦渋の決断を一人でしてきた洋に、私はなんて自分勝手な感情をぶつけてしまったのだろう。
くそッ不甲斐ない。
ドアを閉めるまで、洋は、身動ぎ一つせずに寂しそうに私の後ろ姿を見つめていた。
戻ろう……そして抱きしめよう。
そう思うのに私の頑な心は簡単に解けず、洋のもとへ戻ることが出来なかった。結局そのままリビングに置いてあるPCの前に座ってしまった。少し頭を冷した方がいい。今もう一度洋に会っても、きっと同じことを繰り返してしまう気がするから。だから目の前のPCのモニター画面に集中しよう。
****
「丈……丈? 風邪をひくよ。こんなところで寝ていては」
ゆさゆさと躰を揺すられ、聴き慣れた心地よい声が鈴の音のように聴こえてくる。
あぁ私だけの洋の声がする。心地良い香りだ。もっと傍に来て欲しい。
その声の主に手を伸ばして手繰り寄せ、胸元に抱き寄せてやった。
「えっ!」
小さな驚きの声に違和感を覚え目を開けると、顔を赤くした洋月がいた。
「あっすまない。私も間違えてしまったようだ」
「びっくりした。いつも冷静沈着なあなたなのに」
慌てて腕の中の洋月を元の場所へ戻した。私としたことが寝惚けていたのか。本当に君は……洋と声も姿も似すぎている。
途端に洋が恋しくなってくる。
「丈……何故今宵、洋と過ごさない? せっかく久しぶりに逢えたのに、さっきから洋の泣き声が俺の心臓に届くようで、ひどく切ない気持ちになっているよ」
「洋月……」
「一体どうしたんだ? 君達、あんなに仲が良いのに……喧嘩でもしたのか。見れば君の顔も苦しそうじゃないか」
「ははっ……私は最近自分らしくないことばかり考えてしまう」
「そうか……丈は、言の葉を発してるか。しっかりと」
「言の葉?」
「あぁそうだ、古今和歌集の紀貫之の『仮名序』を君は知っている?」
「さぁ、大昔に授業で習ったかもしれないが」
「ふふっ。丈、君は歳を重ねるにつれて大切なことを忘れてしまったのだな」
突然、洋月の口から滑るように言葉が流れ出した。
…………
やまとうたは、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける。
世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふことを、
見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり。
花に鳴く鶯、水に住む蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、
いづれか歌をよまざりける。
力をも入れずして天地を動かし、
目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、
男女の中をも和らげ、猛き武士の心をも慰むるは歌なり。
出典・古今和歌集『仮名序』
●現代語訳
和歌は人の心を種として、いろいろな
言葉の葉が繁ったようなものである。
この世に生きている人は、いろいろな事物に
いそがしく接しているので、
心に思うことを、見るにつけ聞くにつけ、歌に詠むのだ。
花の間に鳴く鶯、水に住む河鹿の声を聞けば、
この世に生きているもので歌を詠まないものがあろうか。
力をも入れずに天地を動かし、
目に見えない死者の霊の心にも訴えかけ、
男女の仲をなごませ、
猛々しい武士の心をもなぐさめるのは歌である。
…………
「丈、難しく考えるな。君の心の声を口に出して言えばいいい。特に愛する相手には、しっかり外に出していかないとすれ違ってしまうよ。俺の時代では溢れ出る想いを和歌にのせて詠んだものだ。この時代の人は和歌はあまり詠まないのだろう? それならば言の葉を使って、しっかり語り掛けないと……大切な想いは心の中だけでは相手にきちんと伝わらないよ」
「そうか……確かにそうだな」
そうだ。洋月の言う通りに私の感情をすべて話せばいいんだ。
洋はすべてを私に話してくれたのに、私はちっぽけなプライドが邪魔して素直になれなかった。こんなことでは駄目だ。私たち二人の絆があれば私は言葉を発せられるはずなのに、何を気にして何を恥ずかしがっていたのか。今度は私が素直になる番だ。洋より年上だし洋を守ってやりたいという気持ちが強すぎて、自分自身の首を絞めていた。
洋に嫉妬していた。
洋が許そうとする相手にも。
洋の行動を偉かった、頑張ったと素直に認められない自分にも嫌気がさしていた。
ありのままの自分の心を、洋になら見せてもいいんだ。
いやきちんと見せるべきだった。
洋と私は簡単にほどけない絆で結ばれている。
言葉を発することの大切さを噛みしめる。
「洋月……本当にありがとう。今から、洋の部屋に行ってくるよ」
「良かった。こんな俺でも少しは君に役に立てて…」
洋月が微笑むとふわっと白百合のような香りがまた鼻をかすめる。
儚げなのに凛とした真っすぐな心を持つ洋月に、再び洋を思い出す。
早く逢って私の溢れる想いを伝えよう。
私の心の言葉を紡いでいこう。
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