214 / 324

時を動かす 17

階段を下りながら考える。 洋だって、かなりの覚悟が必要だったはずだ。 自分を凌辱した義父を許すのも… 学生時代に強姦されそうになった相手を許すのも… そんな苦渋の決断を一人でしてきた洋に、私はなんて自分勝手な感情をぶつけてしまったのだろう。 くそッ 不甲斐ない。 ドアを閉めるまで、洋は、身動ぎ一つせずに寂しそうに私の後ろ姿を見つめていた。 戻ろう…そして抱きしめよう。 そう思うのに、頑な心は簡単に解けず、洋のもとへ戻ることが出来ず…結局そのままリビングに置いてあるPCの前に座ってしまった。 少し頭を冷やそう。 今もう一度洋に会っても、きっと同じことを繰り返してしまう気がするから。 目の前のPCのモニター画面に集中していく。 **** 「丈…丈?風邪をひくよ…こんなところで寝ていては…」 ゆさゆさと躰を揺すられ、聴きなれた心地よい声が鈴の音のように聴こえてくる。 あぁ私だけの洋の声がする。心地良い香り…もっと傍に… その声の主に手を伸ばし、手繰り寄せ、胸元に抱き寄せる。 「あっ…」 小さな驚きの声に違和感を覚え、目を開けると、顔を赤くした洋月がいた。 「あっすまない。私も間違えてしまったようだ」 「びっくりした。いつも冷静沈着な丈でもこんなことがあるのか」 慌てて腕の中の洋月を元の場所へ戻した。 寝ぼけていたのか。 声も姿も同じだ…洋と。 途端に洋が恋しくなってくる。 「丈…何故今宵、洋と過ごさない?せっかく久しぶりに逢えたのに、さっきから洋の泣き声が俺の心臓に届くようで、ひどく切ない気持ちになる…」 「洋月…」 「一体どうしたんだ?君達…あんなに仲が良いのに…喧嘩でもしたのか。見れば君の顔も苦しそうじゃないか」 「ははっ…私は…最近自分らしくないことばかり考えてしまう」 「…そうか…丈は、言の葉を発してるか?しっかりと…」 「言の葉?」 「あぁ、そうだ、古今和歌集の紀貫之の『仮名序』を君は知っているか?」 「さぁ…大昔に授業で習ったか?」 「ふふっ。丈、君は歳を重ねるにつれて大切なことを忘れてしまったのだな」 そういって洋月の口から滑るように言葉が流れ出した。 \\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\ やまとうたは、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける。 世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり。 花に鳴く鶯、水に住む蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。 力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の中をも和らげ、猛き武士の心をも慰むるは歌なり。 出典・古今和歌集『仮名序』 ●現代語訳 和歌は人の心を種として、いろいろな言葉の葉が繁ったようなものである。 この世に生きている人は、いろいろな事物に いそがしく接しているので、心に思うことを、見るにつけ聞くにつけ、歌に詠むのだ。 花の間に鳴く鶯、水に住む河鹿の声を聞けば、 この世に生きているもので歌を詠まないものがあろうか。 力をも入れずに天地を動かし、 目に見えない死者の霊の心にも訴えかけ、 男女の仲をなごませ、猛々しい武士の心をもなぐさめるのは歌である。 \\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\ 「丈、難しく考えるな。君の心の声を口に出せばいい。特に愛する相手にはしっかり外に出して行かないと、すれ違ってしまう。 俺の時代では溢れ出る想いを和歌にのせて詠んだものだ。この時代の人は和歌はあまり詠まないのだろう? それならば言の葉を使って、しっかりと語り掛けないと…大切な想いというものは…心の中だけでは相手にきちんと伝わらないよ」 「そうか…あぁ…確かにそうだな」 そうか…洋月の言う通りだ。 私の感情を…すべて話せばいいんだ。 洋はすべてを私に話してくれたのに、私はちっぽけなプライドが邪魔して素直になれなかった。 こんなことじゃ駄目だ。 私達二人の絆があれば、私は言葉を発せられるはずなのに、何を気にして何を恥ずかしがっていたのか。 今度は私が素直になる番だ。 洋より年上だし洋を守ってやりたいという気持ちが強すぎて、自分自身の首を絞めていた。 洋に嫉妬していた。 洋が許した相手にも… 洋の行動を偉かった、頑張ったと素直に認められない自分にも嫌気がさしていた。 ありのままの自分の心を、洋になら見せてもいいんだ。 いやきちんと見せるべきだったのだ。 洋と私は簡単にほどけない絆で結ばれている。 言葉を発することの大切さを噛みしめる。 「洋月…本当にありがとう。今から、洋の部屋に行ってくるよ」 「良かった。こんな俺でも少しは君に役に立てて…」 洋月が微笑むとふわっと白百合のような香りがまた鼻をかすめる。 儚げなのに凛とした真っすぐな心を持つ洋月に、再び洋を思い出す。 早く逢って、私の溢れる想いを伝えよう。 私の心の言葉を…紡いでいこう。
いいね
笑った
萌えた
切ない
エロい
尊い

ともだちとシェアしよう!