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贈り物 11
母の墓の前に立つ。
崔加家の墓……立派すぎる大きな墓に母は一人で眠っている。そうだ……最後にここに来たのはアメリカへ義父と旅立つ前日だった。
あの時俺のすぐ隣には義父がいた。肩を抱かれ無言でお互い立っていた。この場所に……震える足で。
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母さん、俺は明日アメリカへ行くよ。
しばらく戻って来られないと思う。俺は自分のことが最近よく分からない。
何故電車であんな目に遭うのか。何故ロッカー室であんな目にあったのか。
今の俺は、あなたが望んでいた息子とは程遠い。こんな姿は見せずに済んで良かった。
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ここに来て次々と思い出す、俺の過去。
それはある時期まではちょっと切なく……でも煌くものだったのに、十一歳のあの日を境に影を落としていったのだ。
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「洋……聞いて。あなたに今度新しいパパが出来るの。受け入れてね」
「えっ……なんで?」
「ママね……もう疲れちゃったの。一人で頑張るのも限界みたい。どうか許してね。弱いママを」
そう言われたらもう何も言えなかった。
その頃の唯一の望みは、母といつまでも暮らすことだったから。やせ細った母の手を見たらコクンと頷くしかなかった。その数日後、小学校から帰ると、母は綺麗に化粧をして悲し気に微笑んでいた。その様子に父が生きていた頃の母の姿をおぼろげに思い出してしまった。父が亡くなってから母は生活に追われて、化粧どころではなかったのだ。
そのことに気が付いてしまった。
「洋……あのね……今日から新しいパパと暮らすのよ」
余所行きの服に着替えさせられ、そのままホテルのレストランへと連れて行かれた。レストランで僕の頭を撫でてくれたのは、父と同じ位の年齢の男性だった。背が高いその人を見上げると少し冷たい眼をしていた。でも母のことを見つめる眼は違った。
「やぁはじめまして。君が洋くんだね。あぁ夕にそっくりだ。君がお母さん似で本当に良かったよ。君なら受け入れらるよ、さぁおいで」
「……洋……行って……」
母にトンっと背中を押され、その人の目の前に立った。
「……」
「可愛い子だ。よしよし……」
何故か頭を撫でてくれたその手に、身震いがした。でも母が再婚する相手なんだからと、必死に言い聞かせたんだ。レストランでの食事は見たことがないような豪華なものだったが、ちっとも美味しく感じなかった。それより母が再婚相手と仲良く話している様子が気になってしょうがなかった。
食事が終わるとそのまま家にその人はやってきたので、「ここはパパとママと僕の家なのに、なんで」という悔しい想いが込みあげてきた。そんな俺の胸中を察したのか、母が俺の手をこっそりと握り、涙を流して頼んで来た。
「洋……ごめんなさい。ママを恨んで。こんなことになって本当にごめんね。パパのこと忘れたわけじゃないの。でもママにはこれしかあなたを守る方法はなかったの。どうか許して……」
その時は一体何のことだか分らなかった。何故母があんなタイミングで再婚したか……息子を守るためだなんて、ただの言い訳だと思っていた。
だが母が亡くなってから主治医の先生と話すことがあって、俺はすべてを理解した。
母は再婚時に実はもう癌を発病していたのだ。それを隠し再婚するなんて……何て酷いことを。でもそれは何故か……それは一人残される俺のためだったのだろう。親戚にも親にも頼れなかった母はどんな辛かっただろう。
まだ小学生の俺を残しては逝くにいけなかったから、再婚という道を選んだのだろうか。義父が母の元婚約者だったとアメリカで叔母から聞いたときは躰が震えた。
義父が母を探し出したのか。
それとも母から頼ったのか。
そんなこと……もう、すべて今更だ。
母の選択は正しかったようで大きく間違っていた。確かに最初の一年は多少ぎくしゃくとしながらも一応家族らしく過ごせた。急に優雅になった生活に戸惑ったが、母も寝込むこともなくなり一見健康そうになった。
そしてよく微笑んでいた。
夏休みの軽井沢で、僕が義父に乗馬やテニスなどを習っている様子を、白いパラソルを差した母が目を細め微笑んで見つめていた。
その光景は今でも目を閉じれば思い出す。あの日の陽ざし、風、草原の緑のにおい。束の間の幸せ……二度と戻らない幸せな日々。
「洋は本当に素質があるわ。テニスに乗馬と何をやっても絵になるわ。王子さまみたいよ」
「ママの楽しみは洋の成長、将来どんなお嫁さんをもらうのかしらね」
母の言葉は、いつもどこか夢現だった。
「もう本当のパパのこと忘れちゃったの?」
そう聞いてみたかった。でもその小さな問いかけは、母があの世に旅立つまで結局出来なかった。
そんなある日のこと……母が急に倒れたと学校に知らせが入り、迎えに来た義父と病院へ向かった。
「夕、なんでこんなことに……」
「ごめんなさい。申し訳なくて……あなたには。あなたが悪いんじゃないのに……最初の時も今回も、全部私のせいです。私の我が儘が招いた結果だわ」
泣きじゃくる母を、ただ茫然と見つめるしか出来なかった。
中学にあがったばかりの春だった。
病室の窓から桜の花びらがふわっと迷い込んで来て、母の肩に乗った。その花はとても儚げで頼りなく、嫌な予感がした。
余命一年という宣告は、再婚したばかりの義父を哀しみの底に落としたようだった。そしてその日を境に母は入退院を繰り返す様になった。
思えばそこから始まったのだ。
義父とのぎくしゃくとした二人きりの生活は。
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