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穏やかな時間 6
「洋くんは何も覚えていないのか」
「はい……父はいつも家にいたような気がします。でも、それもおぼろげで」
「どんな仕事をしていたかも? 」
「はい……全く。あ……でも幼い俺は、よく父の膝にのって絵本を読んでもらったような記憶だけはあります」
「そうか……浅岡さんはね、在宅で翻訳の仕事をしていたんだよ。きっとその読んでもらった絵本は、浅岡さんが翻訳したものだったかもしれないね」
「父の仕事が……翻訳?」
亡くなって以来、父の話を誰かとするのは初めてだ。義父さんと母の間では、実父の話はタブーだった。気が付いた時には住んでいた家から実父の写真や思い出の品、何もかも消えていた。
「そうだよ。彼は英文科出身で知的な人だったな」
「そうね。信二さんって、とても知的で男らしくて美男子だったわね。美人の夕と本当にお似合いの絵になる二人。懐かしいわね。そもそも夕の英語の家庭教師をしていたのが、ご縁だと聞いているわ」
安志のお母さんも懐かしそうに目を細めた。そうか……図らずも、俺が英語好きなのは父親似だったのか。
「あの……父はどうして交通事故にあったのですか。いつも家で仕事をしていたのに」
「あの日は雨で視界が悪かったんだ。浅岡さんは翻訳の仕事だけでなく語学が堪能なことを生かして通訳の仕事も引き受けていて。あれは見通しの悪い交差点で……」
「そうでしたか。通訳の仕事を父もしていたのですね」
「あぁそうなんだ。だからさっき洋くんも同じ道だと思ったのだよ」
知らなかった。成り行きでスタートした通訳の仕事を父もしていたなんて……同じ仕事か。
なんだか嬉しいな。そう思うと朧げな父の笑顔をずっと近くに感じた。もしも交通事故なんかに遭わないで生きていてくれたら、俺の人生も違っていただろう。でももう、そういう風に考えるのはよそう。
「あぁそうだ。少し待って」
そう言って、安志のお父さんは隣の部屋に消えて行った。
初めて知る父の話に動揺している俺を励ます様に、安志と涼が揃って手を握ってくれると、ぐっと心強い温かさを感じた。
「洋、良かったな。本当のお父さんのこと聞けて。俺も全然知らなかったよ」
「洋兄さんは通訳の仕事しているんだね。アメリカで会った時も綺麗な英語を話していたから、すごく似合ってる。お父さんと同じ道を知らず知らずのうちに歩んでいたんだね」
「そうだね。詳しく聞けて良かったし、実父との縁を感じることが出来て嬉しい。あっでも涼の英語はもっと綺麗だよ」
「洋くん……今は心強い仲間がいて幸せね、うちの息子なんかであれだけど」
安志のお母さんも安心した様子で微笑んでいた。
「お待たせ、ちょっとボロボロだが、この本を見てくれ」
「あらお父さん、この絵本懐かしいわ」
手渡されたのは1冊の古びた絵本。
日焼けして黄ばんでいているけれども、これはもしかして……
表紙の埃を払って、翻訳者の名前を見てみると。
『浅岡 信二』
父の名前が印刷されていた。印刷の文字をそっと指でなぞってみる。そしてイメージしてみる。
『浅岡 洋』
俺にはそういう時代もあったはずだ。途端に懐かしいような恥ずかしいような、甘酸っぱい気持ちが込み上げてくる。
こんな風に形で残っていたなんて。こんな本を出版していたなんて何一つ知らなかった。
「浅岡さんは、まだまだ駆け出しの翻訳者だったが、評判もよく仕事はひっきりなしだったようだよ。まだまだこれからっていう時にもったいなかった」
「あの、中を見ていいですか」
「もちろんだよ」
震える手でページをめくると、表紙の裏面に直筆のサインとメッセージが入っていた。
「あっ……」
「あぁそういえば、この本は彼の初めての出版でね、ちょうど洋くんと安志が生まれてすぐだったから、お祝いにもらったんだったな」
「そうだったわね。浅岡さんってば安志と洋くんが幼馴染として一緒に成長していけるのを、すごく喜んでくれたの。それで二人宛にメッセージを書いてくれたのよね」
「うっ……」
駄目だ。こんな風にみんなの前で涙を流すなんて。でも嬉しくて嬉しくて我慢出来ない。
こんな風に父のメッセージを、今になって受け取れるなんて思ってもみなかった。こんな贈り物を残してくれて……父さん……本当にありがとう。
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この世に生まれたばかりの洋と安志くんへ
二人の未来は輝いている。
二人が仲良く幸せに成長できるように、私はどこにいても見守って応援しているよ。
それぞれ大切なものを見つけて、自分を信じて生きてください。
May your heart always feel this happiness,love and joy.
(この幸福、愛情そして喜びが永遠にあなたたちの心にありますように)
浅岡 信二より
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