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番外編 崔加氏の独白 3
「これを使え」
車の中でずぶ濡れの夕にタオルを差し出すと、夕はおずおずと手を伸ばしてきた。
「ありがとう。あの……どちらへ」
「夕、私に今日は罪滅ぼしをさせてくれないか」
「何のことです?」
「若気の至りだった。あの日の詫びをさせて欲しいんだ。私はずっと後悔していた」
「……あの日」
高校生だった夕をラブホテルに連れ込んで無理矢理抱こうとしたあの日。あの日がなければ私は今頃、夕と幸せな結婚生活を送っていたのだろうか。
後悔はいつだって、私の心の奥底にあった。
あれから十年。今日偶然にも再会できたのも何かの縁だ。この機会を逃すわけにはいかない。
「誓って何もしないから、少しでいいから話をさせて欲しい」
「分かりました。あなたを信じます」
「車を銀座のホテルへ」
気が付いたら私は運転手にそう指示をしていた。
****
夕を馴染みの銀座の老舗ホテルの一室へ案内した。
「何もしないから安心してくれ。私は君の着替えなどを手配してくるから、シャワーを使ってくれ。先に荷物を届けさせて一時間後にもう一度ここを訪ねるよ」
「あの……崔加さん? 私なんかに何故こんなに? 」
夕は私からの提案に意外そうな顔をした。
「だから……罪滅ぼしだ」
「私の方こそ、あなたに謝らないといけないのに。本来なら顔向けできないことをしたのは私の方なのに……」
「いや、夕は悪くない。きっかけは私が作ったんだ」
夕は今にも泣きそうな、つらそうな顔をした。その顔を見られただけでも満足だ。夕も少しは私に悪いことをしたと思ってくれていたのだ。その気持ちが嬉しかった。
どこまでも丁寧に紳士的に対応しろ。夕を怯えさせないように、今度こそ失敗したくない。
その時、自分には妻や子供がいるという現実は頭の片隅にもなく、世界に夕と私しか存在しない。そんな高揚した気持ちだった。
デパートで夕に似合いそうな色合いの洋服を購入した。続いてVIP接待係の女性に夕の肌着からネグリジェ、化粧品に靴もすべて整えさせた。それからホテルの美容師に髪のセットも頼んだ。
それらをすべて夕のいる部屋に届けさせて時計を見た。
一時間後には、あんな見すぼらしい洋服を着た夕でなく、あの頃のような美しい夕に会える。そう思うと胸が高鳴った。
「夕、入っていいか」
「……はい」
ドアを開けると、夕が立っていた。薄紫の上質なわんわりとしたワンピースに白いフレンチリネンのボレロ。髪を肩下で少女の様にカールさせ薄化粧をした様子が、夕の愛らしさを引き立てていた。
そのほっそりとした躰に似合わない。ふくよかな胸元にもつい眼がいってしまう。
夕は今何歳になったのだろうか。まだ三十歳か……そこそこのはずだ。十年前と何も変わっていないような、清楚で上品な夕に改めて見惚れてしまう。
だが夕はもう違う男と結婚していて、私のものではないという事実が残酷だった。
「素敵だ」
「あ……こんなに整えてくださってありがとう。こんなお洋服久しぶりに着たわ」
頬を桜色に染めた夕が、優美に微笑んだ。
夕の結婚生活が経済的にひっ迫していることは語らずとも分かった。夕はあんな安っぽいワンピースを着る女じゃなかった。あんなすり減った靴もくたびれた鞄も……バスを待つ姿も何もかも似合わない。
夕は深窓の令嬢だったのに、あの男が夕をこんなにしたと思ったら、急に憎しみと怒りが沸いて来た。
「さぁ温かい紅茶をどうぞ。少し君のこと教えてくれないか」
ルームサービスに運ばせた紅茶を勧めながら、私たちはソファに座った。
「君は今幸せなのか、あの……男は元気か」
一番聞きたかったことを、たまらずに聞いてしまった。あんな身なりに成り下がってしまった夕だが、それでも幸せならいいんだ。
幸せだと答えてくれたら諦めもつく。幸せと答えてくれたら、このままここから真っすぐ帰すだけだ。私には今日の日をよき思い出として、少しでも罪滅ぼし出来たという小さな満足感が残るだけだ。そう思っていたのだが、夕の答えは予想に反していた。
「崔加さん。あの人は死んだの。四年も前に……交通事故で」
「なんだって? じゃあ君は今一人で生活してるのか」
狼狽し、動揺した。
そんなこと願っていなかったのに、これは一体。
「いえ……子供がいるの。息子はもうすぐ十一歳に……」
息子がいるのか。夕にも……しかも自分の息子と同い年なのか。その時になってふと陸の笑顔が脳裏に浮かんだが、すぐに追い払った。
少しだけ諦めがついた。
男の子だからきっとあの駆け落ち相手の男に似ているのだろう。そんな男の子の母である夕なんて…受け入れられない。そう思ったのに、またしても予想を裏切られる結果となった。
「あのよかったら写真みてくださいます? 息子の洋です」
そう言いながら夕が手帳に挟んだ一枚の写真を差し出した。
「あっ」
そこに写っている少年は…まるで夕そのものだった。十代の頃の夕の面影をそのまま引き継いだ……少女といったら誰もがそう信じるほどの綺麗な子だった。
その瞬間、私は夕もこの少年もすべて手に入れたい衝動に駆られていた。
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