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アクシデント 1

「空、随分遅かったな」 「悪い、残業だった」 「早く話せよ」 「ちょっと落ち着けって。まず一杯飲ませて。喉がカラカラだよ」  陸が話の続きを聞きたくてイライラしているのが、ひしひしと伝わって来る。いつ僕が話し出すか、そのタイミングを待ちきれないようだった。  『崔加 洋』についてあれから情報を駆使して調べてみた。どうやら崔加 貴史氏の義理の息子であることは間違いないようだが、それ以上のことには踏み込めなかった。もっと知らなくてはいけないことがある気がしたのに。彼は本当に、陸の恨みを晴らすために怒りをぶつけるだけの相手でよいのか。何かしっくりこないものを感じている。  はぁ本当に僕が迂闊だった。もっとよく知ってから陸には伝えるべきだった。   バーのカウンターでワインを一杯飲んだ後、重たい口を開いた。 「なぁ陸、どうしても話さないと駄目か」 「当たり前だろう。あいつの行方を俺がずっと探していたこと、お前なら知っているだろう」 「恨んでいるのか」 「あぁ恨んでいる。俺から父親を奪った奴だ。あの二人が手を繋いで歩いて行く後姿が忘れられない」 「やっぱりそうか。なぁ僕たちはもういい大人だ。一時の感情だけで行動するほど若くはない」 「空、一体何が言いたい?」 「つ・ま・り、僕からは話せないってこと。僕が迂闊だったよ。あんな電話すべきじゃなかった。僕は君には穏かに過ごして欲しいんだ。もう過去の嫌なことなんて忘れてくれないか」 「何言っているんだ? 過去と向かい合わないと、俺はいつまでもあの時の置いていかれた子供のままだ。空だってそう思ったから探すの手伝ってくれていたのだろう?」  陸は僕のネクタイをぎゅっとひっぱって、怒りを露わにした。 「苦しい! やめろっこんな所で」 「空、じゃあ全部話せよ」 「いや……話せない。僕の一言で何かが大きく変わってしまうのが許せない」 「くそっお前は実際に会ったんだろ。なのに何故教えてくれないんだっ。お前にとって俺はその程度の人間だったのかよ!」 「陸……すまない。僕の口からは言えない。もしも本当に会うべき人なら、陸自身と直接巡り合うようになっているだろう」 「そんな夢みたいなこと言うな。幻滅したよ。お前だけは味方だと思っていた」 「陸、違うんだ。味方だからこそ言えない。お前がもうこれ以上傷つく姿を見たくない」 「そんなことわかんねえよ!」  僕だけじゃ駄目か…お前の怒りも喜びも全部受け止めてあげたい。ずっと思っているその言葉を口に出して言うことはない。  今までも、これからも…… **** 「洋くん、おはよう!」 「流さん、おはようございます」  頬をなでる風の温かさに、春の訪れの気配を感じていた。    あれからしばらく平和な日が過ぎていた。何も起こらないことへの幸せを噛みしめるそんな日々だった。  早起きをすることにも慣れ、朝から流さんを手伝って寺の境内を忙しなく掃除した。それにしてもこれは、いい運動になるな。廊下を磨き上げ庭を綺麗に掃いていくと、心も浄化されていくような清々しい気分になるから好きだ。  丈はそんなことしなくてもいいと言うが、もう俺の生活リズムの一部になっている。 「洋くん、今日も横浜へ行くのか」 「あっはいそうです。昼前には出かけます」 「そうか、ひとりで大丈夫か」 「大丈夫ですよ」  流さんと、こんな風にいつもの会話を繰り返すのも日課のようになっていた。  翻訳の勉強も順調で、講師の先生は実際に翻訳者でもあるので勉強になることが多い。最近はここで勉強するよりも、より実践を学びたくて、横浜の学校まで毎日のように通っている。  流さんも暇な時は俺と一緒に横浜へ出てくれるのだが、今日は何か用事があるようだ。 「気を付けてな」 「ありがとうございます。じゃあそろそろ丈を起こしてきます」 「あいつは寝坊ばかりしてんな」 「昨日も遅かったから……」 「はいはい。じゃあ手早く起こして来い。朝からは余計なことしちゃ駄目だよっ」 「なっ!」  クスクスと冷やかすように笑う流さんに背中を押されて、赤面しながら俺は丈の元へ向かった。

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