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下弦の月 3

「はぁ……」  病室の前で、俺は一度大きく息を吐き出した。このまますぐに涼に会うのが躊躇われて、暗い気分で足元を見つめると、自分の手が嫌でも視界に入ってしまう。ぎゅっと拳を握れば思い出す。この手が今日……何をしでかしたか。  洋を殴ってしまった手の甲は、少し赤くヒリヒリと腫れていた。  どうしてもっと冷静になれなかったのだろう。落ち着いてよく状況を判断してからでも遅くなかったのに。洋の着衣の乱れた躰を見た途端、言葉より行動が先に出てしまい、勢いよくSoilさんに殴り掛かっていた。  庇うように前に出て来た洋の頬に、自分の拳が当たった時の衝撃がすごかった。次の瞬間、洋は口から血を流して倒れ込んでいた。  本当にごめん。痛かったよな。お前をこの俺が殴ってしまうなんて信じられない。洋は気にするなと明るく笑っていたけど、俺の落ち込みは半端じゃないよ。  そしてSoilさんのことも大問題だ。涼から名前は幾度となく聞いていたが、まさかあの洋を犯した義父の実子だったとは。そういえば目元や顔立ちが似ているのか。崔加さんに……  あんなに発作的に殴りたくなったのは、きっと無意識にあの日を思い出したからだ。  Soilさん、いや……陸さんと洋の争う姿に、あの五年前の出来事が重なってしまった。洋をあの時助けられなかった。気づいてやれなかったこと。その後悔はいつまでも繰り返し波のようにやってくる。  もう俺も洋も乗り越えたと思っていたのに皮肉だな。またここで……今度は彼の息子とか関りを持つなんて。  それに涼のことも気がかりだ。洋の従兄弟だと分かった今、Soilさんに何かされたりしないだろうか。そのことが気になると居てもたってもいられなくなって、病室のドアをノックもしないで開けてしまった。 「あっ安志さん」  ベッドに起き上がり肩にベージュの柔らかそうなニットをかけた涼が、俺に気づくとすぐに花のように優しく微笑んでくれた。手には本を持っていたので読書でもしていたのだろう。顔には血の気が戻って来ていて、ずっと元気そうだ。 「もう起きていいのか」 「うん、今日は精密検査をして、何も問題がなかったから、あと数日で退院できるって」 「そうか! それはよかったな」 「それより安志さん、洋兄さんは無事? 」 「あっ……ああ。涼、俺は……」 「安志さん元気ないな。どうしたの? 洋兄さんは無事だったんだよね? Soilさんはどうして洋兄さんを呼び出したりしたの? そこがどうしても繋がらなくて、今日一日ずっと考えていたよ」  涼があどけない表情を浮かべているのに反して、俺の心は懺悔の気持ちでいっぱいだ。  涼の大事な洋なのに、俺にとっても大切な洋なのに……殴ってしまうなんて。それにしても洋がまさか彼を庇うなんて思わなかったし、Soilさんは何故、洋の唇を奪ったのか。  頭の中が混乱して整理しきれず、どこまで涼に話していいのか分からなくて困ってしまう。 「涼……どう話せばいいのか分からない」 「今日、何かあったんだね。ここ赤くなっているよ」  そう言って涼は、俺のきつく握りしめていた拳をそっと擦ってくれた。  涼の指先はひんやりとしていて腫れた患部に心地良かった。その心地良さが一層俺を後ろめたい気分にさせたが……涼とはなんでも正直に話して二人で乗り超え、考えて行こう。そう誓ったことを想い出せば、重い口も素直に開いていく。 「ごめん……俺、洋を殴ってしまった」 「えっどういうこと……?」 「洋は…今日Soilさんに呼び出されて、涼の代わりにモデルの仕事を無理やりさせられたみたいで、俺が到着した時、派手に衣服が乱れた状態でSoilさんと出て来たから、ついかっとなって殴り掛かってしまったんだ。それを洋が止めようとして、俺のパンチ思いっきり食らってしまったんだ。俺さ……洋をこの手で殴ってしまった。情けないよ……自分がしたことが」 「安志さん……そうだったんだね。なんでSoilさんが洋兄さんにそんなことを……でも痛かったのは安志さんも同じだね。殴った方も痛いんだよ」  涼は冷静に受け止めてくれていた。 「涼の大事な洋のこと殴ってごめん」 「いや……安志さんの大事な洋兄さんでもあるんだよ。大事だから殴ろうとするほど怒ってくれたんだね。だからそんなに自分を責めないで。でもSoilさんと洋兄さんのつながりが分からないよ。僕に似ているというだけじゃない気がして」  やはりそこだよな…… 「あぁ……どこから話したらいいか。涼はさ、洋の家庭事情をどこまで知っている?」 「洋兄さんの? 確か……早くにお父さんを事故で失くして、小学校の時お母さんが再婚して……そのお母さんも病気で亡くなった後は義理のお父さんと二人で暮らしをしていたんだよね。アメリカで会った時に、そう言っていたよ」 「そうか……じゃあ洋の義理のお父さんのことを知っているのか」 「……ん……その人のことは、僕の母が嫌っていたから、ずっと近寄るなって言われていたので詳しくは……」  話すしかないか…… 「そうか……Soilさんはその洋の義理のお父さんの息子だったんだよ」 「ええっ?」  流石に涼も驚いたようで、目を見開いて固まってしまっていた。 「驚いた!そんな繋がりがあったなんて。洋兄さん、そのことを知っていたの?」 「いや、昨日まで知らなかったそうだ。俺も全く知らなかった。洋のお義父さんも再婚だったなんて……俺達は、本当に何も知らなかった」  知らなかったことを責められて、自分に出来ることで償おうと必死にもがいている洋の姿が脳裏に浮かんでは消えていく。  そんなに自分を責めるな。そう言ってあげたいのにその声は届くのだろうか。  また何も出来ないんじゃないかと思うと、怖くなってしまう。 「安志さん…」  夕日に映り込んだ影が静かに動いた。  クリームイエローの淡い色合いのカーテンは、やさしく風にそよいでいた。  甘く優しい声と息遣いをすぐ近くに感じると、涼が身を乗り出して顔を斜めに傾け、俺に口づけをしてくれた。  ちゅっと柔らかなリップ音が静かな病室に響いた。 「涼……?」 「そんなに責めないで……何もかも一人で背負わないで」

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