562 / 1585

一心に 6

「松本さん! 」  遠くの街灯の灯りが微かに届く程度なのでとても薄暗い。  車の窓から中を必死に覗くが松本さんの姿は見えなかった。一体何処へ? 「洋、優也さん中にいないのか」 「うん。でもきっと近くにいると思う」 「どこだ? 俺には此処が何処だか、さっぱり分からないよ」 「ちょっと待って」  落ち着いて耳を澄ませ。目を凝らせ。  ぬかるんだ足元の土に目をやると、一つは車道へもう一つは乗馬倶楽部の中へと続いていた。目を閉じて今の松本さんの気持ちに想いを重ねていく。  そうだ、確かこの先には……  さらに遠い昔の記憶を蘇らせていくと、暑い夏場、汗だくで乗馬のレッスンを終えた俺は、いつもこの先の湧き水が出る場所へと足を運んだ。ひんやりとした湧き水がすっと喉を通る時、爽快な気持ちになった。  きっとまだあるはずだ。  きっとそこに松本さんがいるはずだ。 「Kaiこっちだ。きっと! 」 「何か当てがあるのか」 「分からないが、そんな気がする! 」  乗馬倶楽部はもう営業時間を終えていたので入り口から奥の小路の街灯は消され、辺りは真っ暗だった。ただ一筋の光を除いては。  空から降りる月光の光を道標に俺たちはひたすらに走った。確かここを曲がった草むらの先に、あるはずだ。  微かな水音に確信した。 「松本さん! 」 「優也さん! 」  俺とKaiの声が重なった瞬間、松本さんがはっとこちらを見た。 「えっなんで、二人がここに」  動揺した震える声。小鹿のような黒目がちな目は、しっとりと夜露を含んだように濡れていた。 「優也さん、心配したよ。さぁこっちへ」  Kaiが手を差し伸ばす。  お願いだ。早くその手を掴んで!  なのに、松本さんは一歩下がってしまう。  何故……今しかないのに。  その深海から抜け出るのは今だ! 「優也さんどうしたんだ? 俺を怖がらなくてもいい」 「そうじゃないんだ。僕は……僕は……汚れていて」  雲に隠れていた月が再び姿を現し、松本さんの躰を照らした。  着ている白いシャツのボタンが取れているようで、ひらひらと風に棚引いて松本さんの肌が見え隠れしていた。視線をずらすと嫌でも目につくのは首、胸元についた赤いまばらな痕。  それはさっきの東谷さんの額の傷と結びつく。  そんな俺達の視線に気が付いたようで、慌てて胸元を手で覆い、また一歩後退してしまう。好きな人に見られたくない、知られたくない!その気持ちが俺には痛いほど分かる。 「……こんな姿見せたくなかった」 「松本さん、お願いだ! 待って動かないで。Kaiごめん、少しだけでいい! 少し下がって、後ろを向いていてくれ」  Kaiは何かを察したようで、無言で頷いて後ろへと下がった。それを確かめてから俺は松本さんにそっと近づいた。そして持っていた鞄から、さっきまで上に羽織っていたカーディガンを取り出し、ハンドタオルは湧き水で濡らした。 「松本さん大丈夫ですか。さっき実は東谷さんと駅で会いました。だから察しはついています。でも大丈夫だ。何もなかったし、されていない。痕はこれで清めれば大丈夫です。Kaiをどうか拒まないで……Kaiはすべてを知っても受け入れてくれる。とても心が広い奴なんだ」  そっと震えている唇をタオルで拭ってやる。それから首筋と胸元まで数か所つけられた痕も清めていく。 「もしかして僕の過去のこと、翔とのことを……Kaiくんは全部知ってしまったのか」  俺の手を止めて、ふるふると拒絶するように揺れる頭。 「松本さん落ち着いてください。大丈夫です。松本さんが恥じることじゃないはずだ。だってその瞬間瞬間で確かに東谷さんと愛しあっていたのだから。それが終わってしまったとしても、その時の気持ちまで否定しないで……少なくとも東谷さんはそう思っているのでは」 「でも……僕は」 「彼はさっき俺達に、松本さんをよろしくって頭を下げていきました」 「えっ……翔が、まさかそんなことを? 」  途端に松本さんは意外そうな表情になった。 「うん、確かに車の中で無理強いをしたのは良くないことだったけれども、途中でやめてくれましたよね。松本さんの願いを聞いて……そしてもうすべてを終わらせてくれたのですよね」 「あぁ……そうだ。翔は落ち着いたら無理したことを謝ってくれた。いや……僕も、翔に悪かったんだ。ずっと言いたいことも言わず中途半端で。だからなんだ、僕たちが上手くいかなかったのは」 「じゃあもういいじゃないですか。お互い納得したのだから」 「あぁ……さよならと言い合えた」 「そうなんですね」  こんな恋の終わりもある。  そしてこんな恋の始まりも。  俺は震えている松本さんの薄い肩にカーディガンをそっと羽織らせ、背中をトンっと押した。 「さぁもう行かないと。今、優也さんを待ってくれる人のところに飛び込んで下さい」 「洋くん……ありがとう」 「優也さんは汚れてなんかいません。さぁ自信を持って! 」  優也さんにかけた言葉は俺自身に向けた言葉でもあった。  俺も汚れてなんかいない。だから自信を持って前に進んでいく。  月光の下、一歩また一歩と近づきあう影。  振り向いたKaiの手が大きく差し伸ばされ、ふたりの手が一つに重なっていく。  まるで深い深い海の底から引き上げられていくような、美しい光景だった。 『一心に』 了 **** この後の二人は『深海』にて掲載します。 物語は次回から、いよいよ第一部 最終章の「花の咲く音」へと突入します。 いつも読んでくださってありがとうございます。

ともだちにシェアしよう!