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花の咲く音 10
洋のぞくっとする程の美しい顔が、私をじっと覗き込んでいる。酷く心配そうな表情だ。結婚前夜にこんな顔を見せるなんて、心配かけることを仕出かすなんて、全く私らしくない。
だが私らしいとは、一体なんだろう。
今宵は変だ。私が私でないような……自分が泣いたことがまだ信じられないでいた。
「丈……無理するな。泣きたいんだね……今は」
洋の声が心地良く胸に響く。
「洋……」
口に出しその名を呼べば、私の眼から……ぽたりと今度ははっきりと滴となり涙が零れ落ちた。涙は私の手帳にではなく、私の手に重ねられた洋の手の甲に吸い込まれていった。
「丈、俺はここにいるよ。もう離れない。もう二度とあんな悲しいことは起こらない。起こさせない。丈の悲しみに今まで気づけなかった俺が悪い。俺は自分の悲しみに埋もれ、丈がどんな気持ちで、あの日俺から切り出した別れの言葉を受け止めたのか……ちゃんと考えていなかった」
「何故今それを……」
何故……私が頭の中で考えていたことが、分かったのだろうか。
何故……洋はそんなことを、今になって私に告げるのだろう。
洋は優しく微笑み、私の胸に頭をもたれさせた。そして私の衣類の上から胸をそっとなぞった。
「何だ?」
「これだ。この月輪が俺を誘った。丈の悲しみを乗せて」
触れたのは、胸に下げた月輪。
洋とペアで持っていたのだが、洋のものはアメリカで義父と和解した時に、砕けて粉々になり、光のように煌いて消滅したと聞いた。だから私たちには、今この月輪は一つしかない。
「そうか……これはまだそんな力を持っていたのか」
もう過去の縁との交差も終わり、役目を終えたと思ったのに。
「丈、さっきも話したが丈にとっても、あの日のことが深い痛手となってしまっているんだね。俺は丈の悲しみに気が付けず傲慢だった。ここ最近も自分勝手に動いて心配ばかりかけて……丈はあの日俺を失いそうになった傷を、心の奥底にずっと抱えていたのに」
「いや、そんなことない。あれは当事者の洋の方がどんなに辛かったか」
「そうじゃないよ。丈も同じ位……ここを痛めてしまった」
洋の手が優しく胸を撫でていく。
まるで私の心に触れるように優しく。
「でもね……丈が今日こんな風に感情を露わに泣いてくれて、俺は不謹慎かもしれないが、実は少しだけ嬉しかった」
「おいおい」
「ふふっ丈の弱いところ見せてもらえたのだね、やっと」
「洋……」
「俺も少しは逞しくなった? 」
屈託なく明るく、洋が笑った。今まで見たことがないような明るい微笑みだった。
参ったな……本当に洋はすごい。
どんな目にあっても……何度も許し立ち上がり生きて来た。
「まったく敵わないな。だが心が逞しくなるのはいいが、躰はそのままほっそりしている方が好みだ」
「なっ……ははっ! うん、丈らしい言葉だ。どんな丈でもいいよ。俺は丈の傍を離れない。もっといろんな顔を明日から見せてくれよ」
「あぁもう明日になったのか」
時計を見ればいつのまにか時計の針は、零時を超えてた。
「本当だ。いよいよだな」
今日は七夕。そして洋に縁がある人々が一同にこの月影寺に集まり、私たちが共に生きていく覚悟を見届けてもらう日。
「七夕か……洋月もヨウもそれぞれの時代で幸せにしているかな。俺もとうとうその日を迎えることになる」
「もう離さない」
「うん、丈の傍にずっといさせて欲しい。だから離れないよ」
「洋……そんな言葉を……」
「丈今までごめんな。これからは悲しみも喜びも分かち合おう。もう一人で抱え込まないように、お互いに」
どちらかともなく歩み寄り、唇をそっと重ね合わせた。
月だけが見守る神聖な誓い。
二人きりの口づけを交わした。
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