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完結後の甘い物語 『蜜月旅行 44』

 ワイングラスに赤ワインを注ぎ、窓辺に立っている兄さんに手渡した。 「どうぞ」 「んっ、ありがとう」  振り返った兄さんの美しい顔をまともに見れなくて、つい眼を背けてしまった。今日の俺は、兄さんのことを真正面から見ることが出来ない。それ程までにやましい心が蓄積されているのを、ひしひしと感じた。 「これは、ブルゴーニュ・ピノ・ノワール BOURGOGNE PINOT NOIRですよ」 「いいね。僕はブルゴーニュのワインが好きだよ」 「そういえばどうしてですか」 「うん、ブルゴーニュはね、ピノ・ノワールやシャルドなどの単一種を原材料としているけれども……葡萄畑の土壌や気候など地域的な要因と、その葡萄の育て方や拘り、葡萄からワインを産み出す醸造家たちの情熱や努力によって、同じであるはずの品種の葡萄が、造り手によって様々な個性を発揮してくれるから好きなんだ。こんなワインはブルゴーニュの他には思いつかないよ」 「へぇ……兄さんは大して飲めない癖に詳しいですね」  兄さんは夜空に浮かぶ月に向かって、ワイングラスをすっと差し出した。それはまるでグラスの赤ワインに月が浮かんだように幻想的な光景だった。  ぼんやりと見つめる俺には、何故か月が重なっているようにも見えた。 「なぁ流……ブルゴーニュのワインって…僕たち三兄弟と似ていると思わないか」 「は?」 「だって僕たちは同じ親から生まれてきたのに、こんなにも違う。こんなにもお互い個性豊かに成長したじゃないか。特に流は……僕が手塩にかけたお陰で、本当にいい男になったよな」  全く、なんてことを言い出すんだ。この兄は。  俺のことを面と向かっていい男だなんて……はぁ無自覚にもほどがある。  そんな嬉しいことを目を細められて言われたら、男なら黙っていられない。  そのことを理解しているのか……動揺と甘い気持ちが交差していく。 「僕は本当にこの旅行に来てよかったよ。こんなにも心を開放できたのは久しぶりだ。北鎌倉に戻ったら、またいろいろと難しいことが待っているからね」  どこか惜しむような面差しで、兄はワイングラスを傾けた。くっと喉を上下させワインを飲む姿すら美しい。  そんな風に寂し気な目をするな。  まるで誘っているようだ。 「流?」 「それは薙《なぎ》のことですか」 「うん……もう彼女とは話が付いたから、二学期からは鎌倉の学校に通えるようにしてやりたい」 「そうか、では……戻ったら、兄さんは父親ですね」 「そういうことになるのかな。でも……僕は本当に不甲斐ない父だよ」  薙のことが嫌いなわけじゃない。小さい頃からよく面倒も見てきた可愛い甥っ子だ。だが兄の結婚当時のことを思い出すと、胸が塞がる。あの当時のことは、本当にもう思い出したくない。俺は荒れまくっていたし、兄の方にも結婚前に大きな事件が起きた。  駄目だ、今は忘れよう。丈と洋の蜜月旅行に便乗させてもらっている最中だ。とにかく今日は、どこか現実ではないような不思議な一日だった。  兄さんも……もしかしてそう思っているのか。  だから今日はこんなにも危うい態度を取るのか。 「流……聞いてくれるか」 「なんです?」 「さっき部屋で寝ている時に、不思議な夢を見たんだ」 「どっ……どんな夢を?」 「……知らない誰かの夢だった。いやそうじゃない。僕がまだ僕ではない時のものなのかもしれない」  兄さんはその夢の内容を掻い摘んで説明してくれた。 ーーーーー  遠い昔、僕がまだ僕ではない時、とても近い人に恋をしていた。  ある日……月光の降りた庭先で、切羽詰まった僕はその人のことを抱きしめた。 「いくなっ……僕を置いて」  竹林のざわめきが厳かに鳴り響く中、その人は強い風に躰を委ねながら、悲し気に微笑んだ。 「次の世で……もしも『重なる月』と出逢えた時には、きっと成就させましょう。たとえまたこのような境遇で出逢っても、今度こそ、あなたのものに……俺のものに」  そんな言葉を残して、僕の前から消えてしまった。 ーーーーー 「変な夢だろう? 眠っているはずなのに潰されるような胸の痛みを覚えて、思わず熱い涙が溢れてしまったよ。とにかく酷く悲しい夢だった」  兄さんの夢の話を聞いた時、背筋がゾクッとした。何故なら……俺もつい最近似たような夢を見たから。  俺の夢は、まさにその対の夢だった。 「兄さん、俺も似たような夢を」 「えっそれはどんな内容だった?」 「それは……」 ーーーー 「いくなっ!僕を置いて……」  その人とこの先の人生を共に歩めないことを悟った俺は、言葉を受け取らずに背を向け、月に逆らうように歩き出した。俺の振り返らない背中を、その人は強く抱きしめ引き留めた。  だが竹が風に薙ぎ倒されそうな程の強風が吹き抜け、二人を引裂くように邪魔をする。  やはり駄目なのだ。天は俺達を認めない。まして俺はもう……  許して欲しい。  あなたを攫っていけない俺のことを。  すまない……この世では無理なのだ。  あなたを悲しませてしまうことになる。  せめて先の世では、あなたと結ばれたい。  俺はその時は、思うがままに、あなたを抱く。  それはいつだ。  いつまで待てばいい?  何処からか返事が聴こえる。  それは……夜空に浮かぶ月のような人たちが、きっと導いてくれるだろう。  『重なる月』その言葉を、忘れるな。 ーーーー  なんてことだ。  今の今まで、ただの不思議な夢だと思っていた。  あの夢に出て来た朧げな人……俺をひきとめようとしてくれた人はもしかして。  じっと俺の顔を凝視している翠兄さんの顔色は、蒼白になっていた。 「流、お前……もしかして…」 「兄さん、兄さんはもしかして『重なる月』という言葉を知っていますか」

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