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『蜜月旅行 52』もう一つの月

「翠……翠」  ずっと僕のことを、そう呼んで欲しかった人の声が彼方から聞こえて来る。  願いは遂に叶ったのか。  まどろみの中届く声は優しく、僕を明るい世界へと導いてくれた。眩しい光の中へ思い切って目を開けると、至近距離に流の顔があり驚いた。  小さい時からずっと見て来た弟の顔なのに、何かが違った。  今までとは何かが確実に…… 「あっ」  流の顔を見た途端、窓ガラスに押し付けられて受け止めた、あの深い口づけの感触を思い出してしまった。  あれは夢じゃない、現実だ。  羞恥に躰が染まるのを感じたので、慌てて起き上がった。  その瞬間に覗き込んでいた流の額と衝突し、眼の奥に火花が散った。火花は躰にも引火して、せっかく沈めたはずの熱がまた帯びて来てしまった。  ドクドクと自分の心臓の音が聴こえるほどの沈黙。  どうしよう。僕は流のことをまともに見られない。  そんな戸惑いなんてお構いなしに、流がまた僕の唇に軽く触れた。  もう駄目だ。 **** 「あっ翠兄さん、大丈夫ですか」 「翠さん、良かった」  リビングに入ると、テーブルには食事やワインがずらりと並んでいた。そんな中、丈と洋くんが心配そうに話しかけてくれた。  しっかりしろ翠。平常心を取り戻さないと。  そう必死に自分を諫め、奮い立たせた。 「あぁ、すまなかったね。すっかり宮崎の熱にやられたようだ」  熱……その正体は、僕の横に立っている流だ。  流が僕を求め、僕も流を求めてしまった。不完全燃焼した躰の奥底には、まだ燻るものがあり、今にも再び熱を帯びそうで怖い。 「もう大丈夫ですか」 「あぁワインを飲みたいよ」 「良かった」  それぞれの椅子に座ると、流がグラスにワインを注いでくれた。まるで専属のソムリエのような優雅な姿に惚れ惚れとする。小さい頃はやんちゃで木登りばかりして庭を走り回っていた弟なのに、いつの間にこんなに男らしく落ち着いたのか。  だが、その中にちゃんと小さい頃の面影を残し、とても魅力的な男に流は成長した。  流がどんなにいい男かは、一番近くで見ていた僕が全部知っている。自慢の弟だ。とくに僕が離婚して戻ってきてからは、僕の世話を全部やいてくれて、甲斐甲斐しくも頼もしくもあった。  長男だから凛々しくありたいと願う反面、どこか頼りなく揺らぎがちな僕を、見事にここ数年支えてくれた。 「じゃあ乾杯しましょう。翠兄さん一言お願いしますよ」 「あっそうだね。丈、洋くん改めて結婚おめでとう。そして洋くん、僕たちの兄弟になってくれてありがとう。僕は不甲斐ないかもしれないが、流と一緒に君たちを精一杯サポートさせてもらうつもりだ。ずっと共にいよう。もう離れることなく」  話していて、何か胸に詰まるものを感じた。  どうやら遠い昔、僕は二つの別れを経験したようだ。だから僕はこんなにも皆と一緒にいたいという気持ちが深いのか。  何故かそれを僕は知っていた。何かが僕の中で目覚めたせいなのか、先ほどから知らなかった記憶が押し寄せて来る。 「翠さんありがとうございます。俺なんかを、そんな優しい言葉で迎え入れてくれて嬉しいです」  今にも泣きそうだ。洋くんの方も感極まった表情を浮かべていた。 「さぁ乾杯しよう。四人の未来に」  人と違っていてもいい。  それぞれが求める幸せを掴めるのなら、それでいいじゃないか。  たとえその道が、世間では許されない道でも……丈と洋くんが嬉しそうに微笑み合う姿を見つめながら、秘かにそう思った。

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