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振り向けばそこに… 8

「丈先生、次のカルテを置いておきます」 「了解、午前の外来はここまで?」 「あと五名です」 「分かった、次、通して」  今日はオペは入っていなかったので、午前中は外来の診察。午後は入院患者の巡回というスケジュールだった。 「もう11時半か……あっという間だな」  時計をちらりと見て、少しだけ残念な気持ちが込み上げてしまった。とっくに新居の内覧会は終わってしまったな。本当は洋と一緒に見たかった。それが素直な気持ちだ。  だが私の仕事は人の命を預かるものだ。気ままに休めるような仕事ではない事は、一番自分が分かっている。だから今は余計なことは考えるまい。  その代り今日は早く帰宅しよう。  朝のキスの続きは、新居で存分に。  少しだけ名残り惜しそうな表情で私を見送った洋を思い出せば、今すぐにでも会いたくなってしまう。 ****  駅から見える距離に、丈が外科医として勤める病院はあった。見上げるほど大きな白亜の建物だ。  ここなのか……想像よりもずっと立派な総合病院だ。救急指定でもあるようで、ひっきりなしに救急車のサイレンの音がする。 「忙しそうだな、皆……」  少しだけ不安な気持ちが込み上げてしまう。今日はオペは入ってないので、診察だけだと言っていたよな。でも……連絡もせずにここまで来てしまったが、ちゃんと会えるだろうか。  午前の診察が終わったら、一時間ほど休憩があるといつも言っていた。その時間に会えたらいい。だから診察の邪魔をしたくないので、連絡をするのはやめておいた。 「さてと……」  とりあえず俺はこの病院の仕組みが全く分かっていないので、受付で聞いてみることにした。 「すいません、外科の張矢先生会いたいのですが」 「失礼ですが、ご予約はされていますか」 「いえ」  受付の女性に胡散臭そうな眼で見られてしまい、なんだかきまりが悪く恥ずかしい。 「当日の診察はお受けできませんが」 「あっ俺は患者ではなくて」 「……じゃあ製薬会社の方ですか」 「いえ……」  こういう時の答えを持ち合わせていなくて、言葉に詰まってしまった。すると受付嬢は機転をきかせてくれたようで助かった。 「特別ですよ。診察室は6階になります。そこに受付がまたありますので、そちらで名前を告げれば、診察の最後に会えるように手配しました」 「あっはい、ありがとうございます」  とりあえず場所が分かったので、エレベーターで上がってみる。だが今度は受付は通さずに、長い廊下を歩きながらゆっくりと『医師・張矢 丈』の名札を探した。 「ここだ」  まだ午前の診察は終わっていないようで、診察室の前はごった返していたので、そっと一番端のベンチに腰掛けて待つことにした。 「一番の診察室に、齋藤さんどうぞ」  突然マイク越しに丈の声が聴こえて来たので、ドキッとした。  俺と話す時とはまた別の余所行きの声だ。低く落ち着いてクールな声も素敵だ。初めてテラスハウスで会った頃の丈を思い出してしまうよ。  丈……俺達、ずいぶん長いこと一緒にいるな。まさかあの出会いが、こんな日をもたらすなんて思いもしなかったよ。  ひとりふたりと診察が終わった人が去っていく。もうあと一人で丈の診察は終わりそうなので、あと少しだ。  ところがそこからが長かった。  何かあったのか。急患とか?  幸い俺は今日の午後はフリーだからいいが。  しいて言えば腹が空いてしまった。  あわよくば一緒に食事をなんて悠長なことを考えていたのが、恥ずかしくなる。丈はいつも昼飯なんて食べる暇がない程のスケジュールをこなしているというのに。  もう一時間待ちぼうけだ。  丈……早く会いたいよ。  せめて顔だけでも見せてくれ。  勢いよく寺を飛び出して来た時の気持ちが、どんどん萎えてしまう。

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