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夜の帳 3

 月影寺に奥庭に咲く山茶花《さざんか》の花を手折って、僕は墓地にやってきた。  僕の曾祖父は曾祖母と一緒に眠っている。それは確かなことで間違いない。二人の名が墓石に連なって刻まれているのだから。  でも……何度見ても、この墓地は不思議な光景だ。  すぐ隣に、何も刻まれていない墓石が寄り添っている。  この墓は二人が亡くなった後に建てられたのは確かだ。建立年月日だけが小さく刻まれていたから。  名のない墓。  幼い頃から……この墓を見るたびに切ない気持ちが満ちて来た。  ふと見ると今日は墓の前に、白い花が供えられていた。 「一体誰が……」 「翠さん」  優しい声を掛けられ振り返ると、洋くんが微笑んでいた。 「あ……この花は君が?」 「ご迷惑でしたか、勝手にすみません」 「とんでもない、嬉しいよ。あぁこれも山茶花なんだね、白くて綺麗だ」 「はい。あの……山茶花の花言葉も素敵ですよ。花言葉が困難に打ち克つひたむきさだそうです。翠さん、俺はこの寺に来てから、花の名前を沢山覚えましたよ。この寺は本当に花で溢れている」 「そうだね、確か曾祖父が花が好きだったと聞いているよ」 「一年中、何かしらの花が咲いているので、お墓に供えるのに困りませんね。あっ勝手に花を手折ってすいません」  洋くんが頬を赤く染めながら恐縮した。その姿がなんだか愛らしい。 「洋くん、それを言ったら僕もほら」 「あっ翠さんもですか、なんだ」 「ふっ……そういうこと」  僕の手の赤い山茶花が嬉しそうに揺れていた。  いいね。いい風が吹いて来る。  新しく出来た優しい弟の洋くんとは、本当に波長が合うな。  遠い昔の僕にもこんな風に、優しく花の話をして微笑みあえる、弟のような人がいたような気がする。  きっとその子の名は夕凪だろう。僕の曾祖父が大事にした弟のような存在だと伝えられている。  あの洋くんが結婚式に着た白い衣と共に……曾祖父とその弟と夕凪の三人で撮った写真だけが残されていた。その軌跡は確かに残っている。  つまり僕の魂には曾祖父の心が入っているのか。  僕が流を愛したように、曾祖父も弟を愛したのか。  その考えがやはり正しいと思う。  ところがこの寺には肝心の曾祖父の弟の痕跡が残っていない。  何故なのか。  夕凪……この寺に暫くの間滞在した彼ならば、その理由を知っていたのか。 「夕凪……さんも、花が好きだったのかもしれませんね」 「え……」  突然、洋くんも同じ名前を口ずさんだので驚いてしまった。 「翠さんも……今、彼のことを?」 「そうだよ。なんで分かった?」 「翠さん……夕凪さんというのはこの寺を去ってどこへ行ったのですか」 「なんで?それを……」 「驚かないでください。輪廻転生という言葉がある通り、俺の魂の中には彼の心が入っているような気がして。俺、夕凪さんの足取りを追ってみたい。それを知ることで、もしかしたら翠さんが救われるかもしれないと思って」  ドキッとした。  やはり洋くんは僕と流のことを知っているのか。  僕たちの深い恋路を見守ってくれているのか。  僕の動揺が伝わったようで、洋くんは静かに言葉を繋いだ。 「翠さん、俺と行きませんか」 「え……どこへ」 「夕凪さんの足取りを探しに」 「……なんで」 「その……翠さんと流さんの今後に関係するような気がして」 「流と僕……洋くんはもしかして」  どこまで知っているのか。僕と流が愛しあっていることを知っているのか。  聞きたいのに、聞けない。  そんなこと僕の口から。  すると洋くんは微笑んでくれた。 「いいと思ます。俺はそう思っています。翠さんは何も心配しないで……こんな俺を受け入れてくれたあなたたちのことを。ただ守りたいだけなんです」 「洋くん、君は、もしかして?」 「あの、夕凪さんは京都出身なんですよね。俺、ちょうど月末にライターの仕事で京都に行くんです。もし良かったら一緒に行きませんか。お寺のこと、数日ならなんとかなりますか」 「それは流に聞いてみないと」 「大丈夫です。行くのは11月の終わりの週なので、よかったら考えてみてください」 「分かった」  やはり知っているようだ。  知っていて、こんなことを言ってくれるのだね。  この寺に丈が生まれ、洋くんと結ばれて戻ってきた意味が、今繋がっていく。  僕と流にとって、曾祖父にはいなかった二人目の弟の丈という存在が、こんな意味を持っていたなんて。

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