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いにしえの声 16
霧深い宇治の山林。
吸い寄せらるように、僕はどんどん山奥へと足を踏み入れていた。
何故だろう……少しも怖いとは思わなかった。
あの平安装束の青年には、何も問うつもりはない。
しかし……あの顔はどう見ても似すぎている。
柔らかい黒髪。黒目がちな切れ長の二重。すっと通った鼻筋。形のよい唇。
衣装こそ違えども、洋くんを彷彿してやまない容姿だ。
そして古びたセピア色の写真だったが、洋くんと夕凪はよく似ていた。
君は……もしかしたら洋くんや夕凪の前世なのか。
だとしたら僕に力を? 僕を導いてくれるのか。
ふと視界をずらすと、宇治川がずいぶん下に見えた。
いつの間に。ここは随分高台だ。
僕が吸い込んでいるのは霧なのか白い雲なのか。
やがて烏帽子姿の青年は、少し寂し気にもの言いたげに立ち止まった。
彼が指さす方向には、家らしきものが見えた。
そう……そこは……まるでいにしえからの山荘のようだ。
宇治の山奥に、こんな古い建物が残っていたなんて。
「ここは……ここは一体どこなんだ?」
そう問うても返事はない。
その代わりに、脳内に声が木霊する。
(湖翠……湖翠……こ…すい……)
まるで命がこと切れる瀬戸際の、か細い息遣いのよう。
なんてことだ……
僕は、いや僕じゃない。ここにいたのは僕じゃない。
なのに分かる。
振り返ると烏帽子姿の青年の姿は、霧と共に消えていた。
あんなに立ち込めていた霧は薄らいでいた。
思い切って古びた木戸を開けて中に入ると、家屋はもう朽ち果てていたが、いにしえの時には確かに人が住んでいた気配がする。
玄関らしき扉をこじ開けて中に入ると、いつの間にか霧も晴れ、ひだまりの柔らかい雰囲気に包まれていた。
誰かがこの家で愛されていた。そんな気が満ちていた。
軋む床板を踏み鳴らし部屋の内部を見渡すと、壁に古びた布がかかっていた。
もしや友禅の切れ端なのか……そしてこの色合いは……もう劣化しているが、翡翠のような色、海のような紺碧。
まさか!
やはり……ここは夕凪の住み家だったのか。
僕は突き動かされるように庭に出た。
****
山門前に停車した車から降りてきたのは、父だった。
「やぁ流じゃないか。珍しいな。わざわざ出迎えか」
「住職……いや父さん、なんで」
「元気でやっていたか。翠はおるのか」
「兄さんは京都に行っていますよ」
「京都? なんでまた」
父は怪訝そうな顔をした。
「父さんこそ、何でここに?」
「いや、母さんが女友達と旅行に行ってしまったので暇でな」
「はぁ……暇なんですか」
「数日滞在するぞ。孫の顔でも見ようと思ってな」
なんと!それはいいタイミングだ。丁度いい!
「父さん、丁度良かった! 二日ほど留守を頼みますよ」
「はっ? お、おい?」
「兄さんの代理の代理ですよ。たまにはいいでしょう。よろしく頼みます。俺、兄さんを迎えに行ってきます!」
父には分からないだろう。この不思議な胸騒ぎ。
何故なら父は婿養子だから、この寺には曾祖父の子供の代からずっと女系で、他所の寺の次男や三男坊を婿にもらって繋いできた。
父さんもその一人。
都内の寺の三男坊でいずれ寺を継ぐことを約束に、母と結婚したそうだ。若い頃は商社マンをやっていたんだよな。
母と見合いで結婚して、そしてやっと生まれたのが俺達だ。
翠と俺。そして丈。
これが何を意味しているのか、今なら分かる。
曾祖父の湖翠とその弟の流水という人が、望んだ未来が俺達だ。
翠と結ばれて初めて、誰に言われたでもなく、俺達は心で感じとった。
いにしえの人の想いを受け継いだ恋だと、理解できた。
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