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愛しい人 1

 あの人が、もうすぐ帰ってくる。  寂しさなんて……感じない。そんな感情はオレには無縁だと思っていたのに、どうしてあの人の姿がこの寺で見えないと、こんな気持ちになるのか。  オレ……どっかおかしいよな。  そんなことを手持無沙汰で考えていると、珍しくスマホが鳴った。  期待に高まって応答すると母親からだった。途端に気持ちがすぅっと冷めていく。 「な・に?」  自分でも驚くほどの冷たい声。 「まぁ薙ってば冷たいわね。久しぶりなのに。元気にしている? あの人はいないの? 電話に出ないけど」 「……父さん? 父さんなら京都に行っているよ。今日帰って来るけど」 「えっ……あなた一人置いて? ひどいわ」  ひどい?   ひどいのはお互い様だろう。母さんだってそうだろう。俺と一緒に住んでいる時、出張だ、旅行だと……オレを置いて何度も出かけていたのを、覚えていないのか。  そう言いたい気分だった。 「とにかく帰ったらちょっと連絡するように伝えて。あっごめんね。仕事の打ち合わせが入ったわ。またね」  数ヶ月ぶりの電話でもこの有様。  本当に信用出来ない母親だ。  オレの心は、とうに離れている。  もっとオレの近くにいて、オレを包み込んでくれる人を見つけたから。  それは流さん……あなたのことだ。 ****  数日ぶりの我が家だ。  またこの月影寺で、皆で過ごす愛おしい日々が戻ってくる。  一刻も早く……裏庭の墓に行き、流水さんを湖翠さんの隣に眠らせてやりたい。  もう二度と離れないで済むように、僕が守る。  僕と流とで守っていく、あなたたちを。  強い気持ちが広がっていく。 「兄さん、すぐに墓に行くだろう」  隣を歩く流は何も言わなくても、僕の気持ちを汲んでくれる。 「あぁ……もちろん」  山門を足早に潜り流と話しながら階段をあがると、母屋から人影が近づいてきた。逆光になっているが……どこか懐かしい。まるで幼い頃の僕のようなシルエットだった。  そうか……あれは薙だ。 「薙、ただいま」  そう言うと、あからさまに無視された。 「お帰りなさい。流さん」  胸が軋む。薙のこの態度……  一度失った信頼はもう戻ってこないのか。 「おいっ薙、ちゃんとお父さんに挨拶しろよ」  流は慣れ親しんだ口調でそんなことを言ってくれるが、僕の心は一気に沈んだ。京都にいる時は忘れていた、あの痛みがぶり返してくる。  流に促された薙と一瞬目が合うが、また反らされる。  本当にいつか……このわだかまりが解ける日が来るのか。  僕は過去からの思いを無事に解くことは出来たが、まだ抱えているものがあると痛感してしまった。  頑張らないといけないのはここからだ。 「流、いいよ。薙、留守番ありがとう」 「何しに行ったわけ? 観光? 遊び? 流さんまで呼び出して、いい気なもんだな」 「おい? 薙、その言い方はないだろう。お父さんは行方不明になりかけたんだぞ!」 「そんなの知るかよ。いい年して!」  あぁまただ。  僕の血を受け継いだの薙の言葉が、剣のように僕の心を抉る。  しっかりしろ……翠。  お前はこの寺を受け継いだ住職だ。  心を切り替えろ! 住職としてのものへと。  とにかく、すぐにでもこの骨壺を墓地へ届けてやりたくて、一旦自室に戻って着替えることにした。 「流、すぐに法要に取りかかる。着替えを手伝ってくれ」 「……わかりました」  威圧的な僕の声。  もの言いたげな流の表情は、苦渋に滲むものだった。  だが仕方ないんだよ。  薙と僕の関係は一筋縄では修復できないところ迄、来てしまった。  まして僕は父親として……薙を二重に裏切ってしまったのだから。

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