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愛しい人 17
窓の外を見つめて暫く待ってみたけれども、翠さんが戻って来る気配はなかったので、諦めて私も眠ることにした。
すやすやとベッドで丸まって寝息をたてる薙の寝顔が、月明かりに照らされて、涼し気に見えた。
もう終わったのよね。
終わったけど切れない絆は薙のお陰なのね。
生まれたての薙の寝顔を、翠さんとふたりで見守った日々のことを思い出すわ。あの月影寺に妊娠報告に行った翌日から翠さんは変わってしまった。一見誰にも分からないような微妙な変化だったけれども、一番近くにいる私には分かってしまった。
──心が死んでしまった──
その原因に心当たりがあるような、ないような。そのまま私のお腹はどんどん大きくなって、出産の日を迎えたの。嵐の後の満月の日だった。季節が満ちる収穫の秋……十月に薙はこの世に生まれてきた。逞しい泣き声の男の子。顔は翠さんによく似ていると誰もが話題にした。でも赤ん坊なのに意志の強そうな雰囲気は、私に似ていると思った。
「彩乃さん、赤ん坊を見ると思い出すよ。僕の弟が生まれた時のことを」
「まぁ、でも流さんとはニ歳違いだから記憶なんてないでしょう」
「その下の弟が生まれた時のことだよ。僕はもう五歳近かったので案外、記憶にあるよ。窓ガラス越しに赤ん坊を見つめた記憶や、流の手を……」
そこまで話して翠さんは余計なことを口にしたような苦渋の表情を浮かべた。流さんがそんなに気になる? いくら仲が良かったといっても、もう立派な成人した弟でしょ。いい加減に弟離れしなさいよ。そういつもイライラしてしまった。
「翠さん、ほら抱っこしてみて」
「あっ……うん」
おぼつかない手で、薙のことを抱っこした翠さんは、その温もりに感動したように震えた。
「温かい……生きているんだね。僕の子供なんだね。本当に……」
「そうよ。私とあなたの子供よ。私たち親になったのよ」
「うん、そうだね。僕はもっとしっかりしないと……この子のためにも」
「そうよ。何があったのか知らないけれども、あなたは私の夫で薙の父親だってこと、それを忘れないでね」
「……わかった。すまなかった」
少し吹っ切れたような翠さんの表情に、産後間もない私は安堵した。
もう翠さんはどこにも行かない。
心も体も全部……私のもの。
ふたりで赤ん坊の薙の健やかな寝顔を見守った。
月明かりに守られたような、静かな夜だった。
****
茶室といっても、素人の俺が建てた粗末な造りだ。本来ならば人が寝泊まりするような整った空間ではない。それは承知の上で、ここで翠を抱く。
この茶室は、月影寺の母屋からは、竹林が壁のように世界を隔ててくれ、近くにある滝の音が、秘め事を隠してくれる場所にある。
薄い簡易布団の上に、裸の翠の手を引いて横たわらせる。見ると寒そうに震える翠の身体には鳥肌が立ってしまっていた。
「悪い。今、温めてやるから」
手のひら全体をつかって体をさするように愛撫してやる。
「流……」
くすぐったいような、気持ちよさそうな表情を浮かべる翠が愛おしい。だがその感情の狭間に少しだけ苦悩の表情を見てしまった。だから確認してしまう。翠の意志を……
「本当に抱いていいのか」
「あぁ……」
そうだよな……翠の頭の隅には彩乃さんや薙のことがあるだろうに、それでも俺に抱かれようとする翠のいじらしさが心に響く。
あの日、俺の部屋の隣で彩乃さんを抱いた兄さん。
兄さんに抱かれた彩乃さん。
お腹の中にいた薙。
俺は……狂いだしそうな嫉妬にかられた。
その日の想いに、翠は応えようとしているのだ。
「翠……今日は抱かないよ」
「えっ何故……」
意外なことを告げた俺を、翠が不安げに見つめた。
「翠の覚悟だけで、俺……満足してしまったようだ」
「だが……」
「今日の翠は少しムキになっているだろう。なぁ翠……大丈夫だ。俺はもう昔の俺じゃないんだよ。カッとして翠のこと嫌いになんてなるはずもない。なんのために宇治に行って、あそこで誓ったと思っているんだ? 」
そう言い放つと、翠はポカンとした顔をしていた。
「そんな顔するなって、いつまでも俺が聞かん坊だと? 翠を抱くのは次の楽しみにするよ、さぁ今日はもう戻れ」
「流……でも僕は……」
「大丈夫だ。その代わりこの次は二倍もらうぞ。今日は自分の部屋で眠れ、ちゃんと父親として傍にいてやれ。そういう翠のことも嫌いじゃない」
まだ腑に落ちない翠の唇だけは、深くもらった。
正直下半身は我慢できないほどだったが、ひとりで処理することには慣れている。
「ふっ……あっ……」
俺からの口づけを必死に受け止める翠。これ以上はとまらなくなる。
翠の肩を掴んで起こしてやり、脱ぎ捨てた着物を着せてやった。
「翠の覚悟は十分受け取った。嬉しかったよ」
「そうか……流、お前、大人になったな」
「ぷっ、いつまでも駄々っ子だと思われているんだか。俺はもう感情のまま突っ走って失敗しない」
「なんだか……少し寂しいな」
そう言って翠は微笑んだ。大好きな兄の微笑み、翠の微笑み。
よしっ!この笑顔が見られたので安心した。満足した。
あの日離縁され傷心の翠を月影寺で迎えた俺が、必死に思ったことはただ一つ。
兄の笑顔がまた見たい。
そのためにこの十年近く必死に頑張ってきた。
躰の繋がりだけではなく、こういったやりとりで翠の笑顔を見ることが出来たのは、深い意義があることのように思えた。
「流はどうする? 一緒に戻るか」
「俺はここに泊まるよ。気にすんな。やることあるし」
「……本当に大丈夫か。その……僕の手で……しようか……」
「馬鹿、もう早く帰れ」
頬を赤らめる健気な翠の背中を押してやった。
今日はこれでいい。
俺たちには明日があるから……
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