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明日があるから 1
「じゃあ、翠さん。私は東京で少し仕事をして、そのままフランスに戻るわ」
「そうか…………『戻る』のか」
「そう、もう拠点があちらになりそう。こう見えてもモテるのよ、私」
「知っているよ」
「もう憎たらしい人、あの……薙のことよろしくお願いします」
珍しく彩乃さんが僕に頭を下げたので、驚いてしまった。
僕と彩乃さんの関係は、昨日を境に歯車が噛み合ったというか……薙の両親として適度な距離を保つことで、合意出来たのか。
「うん、僕も本気で薙と向かい合うよ」
「助かるわ。やっぱり思春期の男の子のことは難しくて……そろそろ父親の出番かなって思うことも多かったのよ。翠さん、ありがとう」
「君が……そんなことを……」
「あら、私があなたに謝ったり感謝したりするのは変? ふふっ」
彩乃さんの笑顔は、何かを吹っ切れたように明かるかった。
その笑顔の向こうに結婚前の快活な彼女を思い出し、懐かしく思った。
当時の僕に必要だったのは、彼女の真っすぐ歩む力強さ、太陽のような明るさだったのかもしれない。そこに惹かれた部分が確かにあったのだ。
「こちらこそありがとう」
「私たち、やっといい感じになったわね、あなたの幸せを祈っているわ」
「僕もだ」
彩乃さんを駅まで送る車の中で、僕たちはしみじみと語りあった。
運転している流は始終無言で、助手席に座っていた薙も、押し黙っていた。
「兄さん、駅に着きましたよ」
「ありがとう。じゃあ彩乃さんをホームまで送ってくるよ」
「分かりました。 薙はどうする? お母さんのことを見送るか」
「オレはここでいいよ。母さん、気をつけてな」
「まぁ薙ってば珍しいわね。そんなこと言ってくれるなんて! 」
「……別に」
「ふふっ流さん、ありがとう」
「ああ」
「そうだわ、あのね……」
彩乃さんは先に車から降り、運転席の窓から流に何かを耳打ちした。
途端に流の頬が赤くなり、固まった。
「何を話した? 」
「なんでもないわ。さぁ翠さん荷物持ってくれない」
重たいスーツケースをトランクから降ろして、ホームまで僕は彼女を見送る。
「……彩乃さん、さっき流に何を言った? 」
「気になる? 」
「いや……」
あとで流に聞けば分かると思ったので、深追いはしなかった。
「Bon voyage. 」(良い旅を……)
彩乃さんとは、フランス語の挨拶で別れた。
つむじ風のような勢いの帰国でバタバタだったな。それでも……僕たちの関係や立ち位置を、明確に出来たのは良かった。
僕も自分の意志を持って……初めて彼女に伝えられたのだから。
清々しい気持ちで流の元へ向かうと、運転席と助手席で流と薙が楽しそうに話しているのが垣間見えた。
気にするな。ただの叔父と甥っ子の会話だ。そう思うのに、少し寂しく見えてしまうなんて……僕は本当に流の恋人になったのだと、自覚する瞬間だ。
「流、待たせたね」
「翠、もういいのか」
「うん、帰ろう」
「あぁそうしよう」
僕と流の間に、朝がやってきた。
眩しい位に新鮮な朝がやってきた。
あの日掴めなかった明日は、ここに確かにあった。
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