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慈しみ深き恋 3

 北鎌倉 月影寺。  いつもの朝、いつもの時間。  俺は竹林の庭の手入れをしながら、翠の口から奏でられる読経を歌のように聴いていた。  今日も相変わらずいい声だ。透き通るような静かな声は、竹林の静寂に華を添えるように麗しい。  翠が夜に啼く声も、朝の読経の声も、どちらも好きだ。  遠い昔の俺は、このような穏やかな朝を人生半ばで手放さなくてはいけなかった。そのことの無念さを思えば胸が塞がる思いだ。あいつの分まで、俺は今の翠を愛していく。  春の兆しを感じる青空を見上げると、あいつの想いが舞ってくるようだ。  お前が描いた叶わなかった夢は、全部俺が叶えていくから心配するな。  俺は翠のことを、溺愛している。もう盲愛かもしれない。  でもこれでいい。  それから竹林の向こうにちらりと見える建設中の家を見つめ、ひとりほくそ笑んだ。  完成は四月上旬だ。八重桜が舞う中、俺と翠が日中を過ごす家が、いよいよ完成する。もう骨組みは出来、目を閉じれば完成した形を想像できるほどになっていた。  建築事務所の野口律子さんという女性の提案で「繋がり」をテーマにした趣深い家になる。  待ち遠しい。  本当は寝室ごと移したかったが、まだ中学生の薙との生活も大事にしたい翠の意向を重視して、俺と翠と薙の母屋の部屋はそのまま残すことになっている。まぁそれも致し方がないよな。翠は俺の翠だが、薙の父親でもあるのだから。  いつの間にか翠の読経が途中で止まっていた。  まだお経の途中だったのに……何故だ?  訝し気に思い急ぎ本堂に駆けつけると、翠はこめかみに手をあてて蹲っていた。   「翠、どうした?」 「あっ……流……ごめん。ちょっと片頭痛でね」 「大丈夫か」 「……少し休みたい」 「そうした方がいい。最近の翠は根を詰め過ぎだ」 「……そうかな」  翠は少し顔色が悪いものの、いつものように静かに優しく微笑んでいた。でも気がかりだった。ここ最近、翠の精神状態は、あの克哉が起こした事件から、少し落ちつかないことを知っているから。  俺には必死に隠しているが、あの時……俺が駆けつけるまでに克哉にされた行為がしこりになって、時折翠を苦しめているのだ。事件は解決したようで、根の深いところで、まだ留まっていると痛感する。 「少し横になるか」 「……うん」  意地を張らず素直に従うのは……やはり調子が良くないのだと悟った。  だが翠は、以前よりずっと素直になった。俺に甘えてくれるようになった。以前の翠だったら、具合が悪いことをひた隠しにしただろう。そう思うとやはり愛おしくて溜まらない。  翠の部屋に連れて行き布団を敷いて寝かしてやると、大人しく横になり、すぐに目を瞑ってしまった。  その様子に急に不安になるし、胸がザワザワとする。 「……ゆっくり休めよ」  もう返事はなかったが、規則正しい寝息が聞こえたので幾分ほっとした。そっと額に手をあてると、ひんやり……さらりとした肌が気持ち良かった。  熱があるわけではないな。やはり疲れが溜まっているのか。  しばらくの間、翠の様子を見守っていると、薙が帰宅したようで、階段を上る足音の後、ヒョイを顔を覗かせた。あの事件以降……翠が密室になるのを嫌がるので、部屋の扉は開けたままだ。 「ただいま! あれ? 父さんまた……具合が悪いの?」 「あぁ……お帰り。そうだな、少しお疲れみたいだ」 「そっか……父さん、大丈夫かな」  薙は部屋に入って来て、心配そうに翠の顔を覗き込んだ。 「何かあったか」 「うん、夜中に父さんさ……たまにうなされている。寝言かな……あれは」 「そうか……あの事件が尾を引いているのかもしれないな」 「やっぱり流さんもそう思う?」 「あぁ」  やはり薙も同じことを思っていたのか。  息子にこんな心配を掛けていることを知ったら、翠がますます落ち込みそうだから、聡い薙ぎも余計なことは言わなかったようだ。  そう思うと改めて克哉の仕出かしてくれたことが憎くて溜まらない。憎しみからは何も生まれないことは知っているのに、あいつに対しては……やり場のない怒りに震えたままだ。  どうやったら翠のトラウマを消してやれるのか。最近の俺は、そのことばかり考えていた。  密室。  ベッド。  バイブ音……  全部、今の翠の苦手なものだ。

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