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慈しみ深き愛 18
流はあの時まだ三歳だったのに、まさか記憶に残っていたなんて……驚いた。同時に猛烈に恥ずかしい気持ちがこみ上げてきた。
僕がまだ五歳の頃、母に女の子の着物を着せられたことを指摘され、本当に焦ってしまった。
****
三月三日、桃の節句。
幼稚園から戻るとお母さんはすぐに台所に立ち、鼻歌を歌いながら、ちらし寿司を作りだした。
ふぅん……幼稚園でも歌ったり雛あられをもらったりしたから、今日が何の日だかちゃんと知っているよ。僕の家には女の子がいないから関係ないと思っていたけど、そっか……お母さんが女の子だから、ちゃんとうちでもお祝いをするんだなぁと思った。
僕と目が合うと、お母さんはニコっと微笑んだ。
「翠、ちょっといらっしゃい」
「なぁに?」
「いいからいいから、ちょっとこれ着てみて」
連れて行かれたのは隣の和室。壁には真っ赤な着物が飾ってあった。
「でも……これって女の子の着物だよ」
「これはね、お母さんが翠くらいの時に着たものなのよ。ちょっとだけだから。ねっ」
「う……ん」
僕に女の子の着物を着せるなんて、驚いた。
すぐに真っ赤な絞りの着物を着せられ、頭には蝶のような大きなリボンを付けられた。そしてお母さんは薄い色のねっとりしたものを人差し指に掬い取り、僕の唇の上にすっと乗せた。
「きゃあ! やっぱり翠なら似合うと思ったわ。女の子みたいに可愛い! 私もひとりくらい女の子欲しかったわ」
お母さんはうっとりと目を細め手を広げ優しくふわっと、僕を抱き寄せてくれた。
下に弟がふたりもいるので普段はなかなか甘えられない僕だから、滅多にない甘い母の胸の居心地は照れ臭くもあり、同時に嬉しいものだった。
だから僕も目を閉じて、じっと味わった。
あぁ……久しぶりにお母さんに抱っこしてもらったなぁ。
「そうだ、翠、今日はずっとそのままでいてね」
「え……でも……お父さんが見たらきっと怒るよ……こんなの」
「今日はお父さんは出張だから安心して。折角ちらし寿司を作るのだから、お雛祭りパーティーをしましょう!」
「う……ん」
そういうもんなのかな。まだ僕は五歳だからよく分からない。でも、なんだかいけないことをしているみたいで、もぞもぞとしてしまう。
それに流の相手をするのに、このままだと動きにくいから困るなぁ。やっぱりもう脱ぎたいとお願いしよう。そう思っていると隣の部屋で眠っていた丈が起きたらしく泣き声が聞こえた。
「あら、丈が起きちゃった。あらら……泣いてるのね。翠はここで待っていてね」
結局……母に抱っこされたのは、ほんの一瞬だった。でもそんなことはもう慣れた。流が生まれた時、丈がお腹にやって来た時、母に近い場所はどんどん遠くなっていった。
「お兄ちゃんなんだから、ごめん。我慢してね」
「お兄ちゃんはもうひとりで出来るわよね」
その代わり……そんな言葉を沢山もらうようになった。
うーん、やっぱり着物って動きにくいな。
ひとりになった僕はやることがないので畳にペタンと座り、折り紙を折り始めた。すると廊下をパタパタを走る可愛い足音が近づいて来た。
「おにいちゃーん!」
流の声がしたので、ほっとした。
僕はこの声が大好きだ。僕を呼ぶこの声が聞こえると、胸の奥がポカポカになるんだ。
「流っ」
襖を開けて飛び込んで来た流に、いつものように話かけたつもりだった。なのに流はその黒い目を見開いて、大きく飛び退いてしまった。
「ごっごめんなさい!」
「え……僕だよ。流のおにいちゃんだよ」
「え……ちがうよ。僕のおにいちゃんは、おひめさまなんかじゃない」
あっそうか。僕がこんな着物を着ているから、わかってもらえないのかな。
「……怖くないよ。少し遊ぼうか」
「う……ん」
僕のことを、おずおずと見上げる流の顔は困ったように歪んでいた。
だから流が慣れるまで暫く無言で、折り紙をすることにした。すると途中で……折り方が分からなくなった流の手が止まったので、そっと手を添えると、思いっきり振り払われてしまった。流の手がビクンっと震えた。
「違う! おにいちゃんじゃないから、いやだ!」
見れば……流の頬は真っ赤になっていて、そのまま部屋を飛び出していってしまった。
「待って!」
僕は僕なのに、どうして?
とにかく流に嫌われるのだけは、イヤだ!
****
あの時初めて抱いた、流に嫌われたかもという不安な感情を思い出して、なんだか切なくなってしまった。でも同時に聞いてみたいことがあった。
「なぁ……そう言えば、どうしてあの時、流は顔を赤くして僕から逃げたんだ?」
「ええっ? それを聞くのか、今更……」
流はそんなこと聞かれると思っていなかったようで、目を見開いてギョッとしていた。
「うん、だってあの時の僕は流に嫌われたのかと思って、結構ショックだったんだよ」
「へっ? そんな風に思わせてしまったのか、うーん、それは悪かったな」
途端にシュンとしてしまう様子に幼い頃の流を思いだし、無性に可愛くなって、僕はギュッと昔のように抱き寄せてやった。
「大丈夫だよ。その分、今、大事にされてる」
流に甘い僕は、喜ぶことを囁いてやる。もちろん僕の本心からの言葉を贈る。
「実はな……あの時の翠があまりに可愛くてドキドキしたんだ。ちゃんと翠だって分かっていたんだ。見慣れた兄がすごく可愛くて目がチカチカしたたんだな。ははっ! にしても俺はまだあの時三歳だろ。こうなる素質をしっかり持ってたんだな」
あの時顔を真っ赤に染めた理由はそれか。はぁ……今聞くと、嬉しいんだか、嬉しくないのだか。
「なぁ翠、着物を着てくれよ」
「ん? 着物ならいつも着てるだろう?」
「違うよ。男の和装じゃない。それから巫女姿じゃなくて、ちゃんとした女の着物姿を見たい」
「ば……馬鹿っ、調子にのって!」
いつの間にか抱き寄せられた腰。重なった下肢が熱くなる。
「実はさ……翠を思って仕立てた振袖があるんだ」
「はぁ……流は本当に……馬鹿な弟だ。いつもいつも、そんなことばかり考えていて」
でも可愛い弟だ。
僕は流が喜ぶことならなんでもしてあげたくなるが、流石にそれとこれとは別だ。
「流……僕はもう振袖が似合う歳じゃないよ。あ……でも洋くんなら似合うんじゃないか」
「うーん、そうか。確かに、兄さんはやっぱり凛とした和装がいいかもな。そうか洋くんか、おお! 我が家の嫁か!」
流が顎に手をあててニヤニヤしているので、心の中で洋くんに深く謝っておいた。
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