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正念場 16
「洋くん、どうかな? さっぱりした?」
廊下から翠さんの声がしたので、その話はそこで終わった。
透き通るような優しい声で、いつも俺を気にかけ話しかけてくれる優しい兄……翠さん。
あなたがいるから、俺は月影寺で本当に居心地の良い時間を過ごせています。でも、あなたには、まだまだ俺が知らない辛い過去があるのですね。きっと……
俺は翠さんを知れば知る程……蓮の花のような人だと思っています。
外見は清々しいのに、泥水を吸い上げながら、茎を伸ばして花を咲かせる蓮と似ていると。
蓮って……確か清らかに生きることの象徴で、仏教では知清、慈悲の象徴として捉えられているんだったよな。
視力をストレスで失う程の辛い事が過去にあったのに、あのような惨い事件に巻き込まれ自身の尊厳を傷つけられたのに、いつも凛とたおやかに佇んでいる。
俺の目の前に立った翠さんのことを見つめたまま、ぼんやりとしてしまった。
「洋くん、大丈夫……? まだ具合悪いのかな」
「あっ……すみません。髪を洗ってもらって、さっぱりしました」
「それなら良かった。流は上手だろう? でも……さっきから丈が居間で待っているから、早く行った方がいいかも」
「そうそう! 丈はやきもきしてるぜ!」
流さんも俺の背中をトンっと押した。
「そうします!」
居間に行くと、丈は何やら事務的な電話をしていた。
「ええ、はい……では、そうさせてもらいます。縫ったのは5針で傷は幅2.5cm、深さ1cm弱ですか、なるほど」
あっ、もしかして昨日行った病院に電話してくれているのか。
電話を切った丈は、チラッと俺を見た。少し恨みがましい目で見るもんだから、肩を竦めてしまった。
「洋、流兄さんに洗ってもらって、さっぱりしたか」
「うっ……うん」
「まぁ、それならそれでいいんだ。それより傷の様子を確認させてくれ」
ガーゼで一時的に縫った場所を保護していた。ガーゼを剥がされると、縫った部分をテープのようなものでとめられていたのが、鏡越しに見えた。
なるほど、今はこういう治療をするのか。
「よし。これなら毎日消毒する必要はないから、病院に通わなくていい。くれぐれも……この部分を日光に当てたりしないようにな。紫外線が一番良くない」
「うん、分かった。暫くは……大人しくしているよ」
幸い外部での仕事は入っていなかった。在宅で翻訳の仕事はあったが、とにかく外に出歩かなくて済むのは幸いだった。
俺も一刻も早く傷を治したい。来週白江さんに会う時に、傷が痛々しいと彼女に負担をかけてしまうだろう。
「あぁ、そうしてくれ。綺麗に治してやりたいからな」
「丈、いろいろありがとう。心配かけてごめんな」
****
白金の洋館で、私はずっと封印していた部屋の鍵を開けた。
ここは、愛娘の夕の部屋。
あの子がこの家と私達を捨てて出て行った日のまま、時が止まっていた。
「夕……ゆーちゃん、ママよ……ママが来たわ……うっ……」
何十年もの間、閉められたままだった両開きの窓を、思いっきり開けると、ふわりと春の優しい風が吹き込み、白いレースのカーテンを揺らした。
風が立てば、懐かしい夕の香りが微かに残っているような気がした。
「夕……私……もっと早く……行動すればよかった」
でも……後悔しても始まらないわ。
夫亡き後、私が出来ることを、してあげられることをしたい。
夕が残してくれた息子にしてあげたいという気持ちが満ちて来た。
明日には人を呼んで、この埃っぽい部屋を掃除してもらいましょう。
それから……弁護士の先生にも来てもらって……
あぁ、忙しくなるわ。
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