1193 / 1585

追憶の由比ヶ浜 1

「兄さん、おはよう」 「え……流……今、何時だ?」 「……」  時計を見て仰天した。  なんと、もう9時ではないか。  早朝の読経も、学校へ行く薙の見送りも、全部すっ飛ばしてしまうなんて、僕、一体どうしたのだ? 今まで……どんなに疲れていても、ちゃんと目覚めたのに。  少しだけまた視界が白くぼやけるので真っ青になっていると、流がチュッと口づけしてくれた。するとスッと視界がクリアになったので、ホッとした。 「兄さん、そんなに焦らなくても大丈夫だ。俺が全部しておいたから」 「あ……お前、なんで袈裟を?」 「朝のお勤めならしたぜ。薙には弁当も作ったし、薙は薙で寝坊してすっ飛んでいったから、兄さんが起きていないことにも気付いてなかったようだが」  そこまで説明してもらって、ようやく安堵した。 「流、ごめんな」 「いいって! 元はと言えば俺が昨夜求めすぎたせいだしな」  そこで……まだ建設途中の離れで、昨日情交したことを鮮明に思い出した。   「あ……あそこ、床をちゃんと処理したくれたか」  ****  流石にもう9時か。そろそろ起こさないと由比ヶ浜に行く時間がなくなるぞ。  揺り起こすと、翠の目が一瞬俺を見ていないような気がして、慌てて口づけをした。  ぬくもりで目覚めてくれよ。ぬくもりで俺を感じて欲しい。  やがて徐々に覚醒し、いつもの調子が戻って来たようで、人知れず安堵した。   「床を汚してしまった……」  今度は何を心配するかと思ったら、そこかよ。おい、可愛いな。   「翠、たっぷり出せて偉かったな」 「な、何を言うんだ! りゅ、流だって」 「はは、床なら綺麗に拭いて置いたから心配するな」 「そ、そうか……よかったよ。ふぅ……」  ほっと安堵の溜め息なんてついて、本当に可愛い人だ。  それにしても翠にのし掛かる身体の負担を、どうにかしてやりたい。 「今日は俺でも出来る仕事ばかりだ。だから兄さんはオフだ。ほら起きて、これを着てくれ」 「オフって? 今日はそんな予定ではなかったが」」    翠の背中に手を回し起こし浴衣の帯に手をかけると、大人しく従ってくれた。  昨夜……俺が愛し抜いた痕跡が散る裸体だ。風呂上がりに丹念にボディクリームを塗ってやったので、素肌が真珠のようにしっとりと輝いていた。  さり気なく翠は、心臓の下の火傷跡を手で隠そうとする。  それはいつもより痛々しい仕草だった。  いつもならそこに口づけしてやるのに、それすらも躊躇われるのは何故か。 「りゅ、流……早く服を」  少し暗い表情の翠に促されたので、淡い水色のシャツを着せてやった。 「あの……袈裟は?」 「さっきオフだと言ったろう」 「で、でも……僕はオフにすることなんてないから……困る」 「今日はいい天気だ。洋くんと出掛けて来いよ」 「洋くんと?」 「そうだ」  翠は洋くんと聞いただけで心が落ち着いたようで、素直に言うことを聞いてくれた。 「流、悪いね。僕たちだけ出掛けるなんて」 「いいって! 楽しんで来いよ」 「じゃあ……悪いが、そうさせてもらおうかな」  兄さんはかなり素直になった。  相手が洋くんだからなのか。  気を許せる相手がいるっていいもんだな。 洋くんは洋くんで張り切っているし、いいコンビだ。 「翠さん、今日は俺が運転します」 「え? 洋くんが」 「はい、こう見えてもちゃんと運転出来ます」 「というわけだ、洋くん、宜しく頼むよ」 「はい!」  二人を乗せた車を見送った。  俺だとついガンガン問い詰めて、翠を窮地に追い込んでしまう。    だから今回は洋くんに託した。  君なら翠の心に優しく寄り添ってくれるはずだ。  積もり積もった翠の苦悩が、どうやったら解き放たれるのか。    ふたりで探って来て欲しい。  少しだけもどかしい気持ちは握り拳に込めて、俺は一気に山門を駆け上がった。  今日は月影寺の副住職として、頑張ろう。  帰宅した翠が寛げるように、戻ってくる場所を整えておこう。    

ともだちにシェアしよう!