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追憶の由比ヶ浜 1
「兄さん、おはよう」
「え……流……今、何時だ?」
「……」
時計を見て仰天した。
なんと、もう9時ではないか。
早朝の読経も、学校へ行く薙の見送りも、全部すっ飛ばしてしまうなんて、僕、一体どうしたのだ? 今まで……どんなに疲れていても、ちゃんと目覚めたのに。
少しだけまた視界が白くぼやけるので真っ青になっていると、流がチュッと口づけしてくれた。するとスッと視界がクリアになったので、ホッとした。
「兄さん、そんなに焦らなくても大丈夫だ。俺が全部しておいたから」
「あ……お前、なんで袈裟を?」
「朝のお勤めならしたぜ。薙には弁当も作ったし、薙は薙で寝坊してすっ飛んでいったから、兄さんが起きていないことにも気付いてなかったようだが」
そこまで説明してもらって、ようやく安堵した。
「流、ごめんな」
「いいって! 元はと言えば俺が昨夜求めすぎたせいだしな」
そこで……まだ建設途中の離れで、昨日情交したことを鮮明に思い出した。
「あ……あそこ、床をちゃんと処理したくれたか」
****
流石にもう9時か。そろそろ起こさないと由比ヶ浜に行く時間がなくなるぞ。
揺り起こすと、翠の目が一瞬俺を見ていないような気がして、慌てて口づけをした。
ぬくもりで目覚めてくれよ。ぬくもりで俺を感じて欲しい。
やがて徐々に覚醒し、いつもの調子が戻って来たようで、人知れず安堵した。
「床を汚してしまった……」
今度は何を心配するかと思ったら、そこかよ。おい、可愛いな。
「翠、たっぷり出せて偉かったな」
「な、何を言うんだ! りゅ、流だって」
「はは、床なら綺麗に拭いて置いたから心配するな」
「そ、そうか……よかったよ。ふぅ……」
ほっと安堵の溜め息なんてついて、本当に可愛い人だ。
それにしても翠にのし掛かる身体の負担を、どうにかしてやりたい。
「今日は俺でも出来る仕事ばかりだ。だから兄さんはオフだ。ほら起きて、これを着てくれ」
「オフって? 今日はそんな予定ではなかったが」」
翠の背中に手を回し起こし浴衣の帯に手をかけると、大人しく従ってくれた。
昨夜……俺が愛し抜いた痕跡が散る裸体だ。風呂上がりに丹念にボディクリームを塗ってやったので、素肌が真珠のようにしっとりと輝いていた。
さり気なく翠は、心臓の下の火傷跡を手で隠そうとする。
それはいつもより痛々しい仕草だった。
いつもならそこに口づけしてやるのに、それすらも躊躇われるのは何故か。
「りゅ、流……早く服を」
少し暗い表情の翠に促されたので、淡い水色のシャツを着せてやった。
「あの……袈裟は?」
「さっきオフだと言ったろう」
「で、でも……僕はオフにすることなんてないから……困る」
「今日はいい天気だ。洋くんと出掛けて来いよ」
「洋くんと?」
「そうだ」
翠は洋くんと聞いただけで心が落ち着いたようで、素直に言うことを聞いてくれた。
「流、悪いね。僕たちだけ出掛けるなんて」
「いいって! 楽しんで来いよ」
「じゃあ……悪いが、そうさせてもらおうかな」
兄さんはかなり素直になった。
相手が洋くんだからなのか。
気を許せる相手がいるっていいもんだな。
洋くんは洋くんで張り切っているし、いいコンビだ。
「翠さん、今日は俺が運転します」
「え? 洋くんが」
「はい、こう見えてもちゃんと運転出来ます」
「というわけだ、洋くん、宜しく頼むよ」
「はい!」
二人を乗せた車を見送った。
俺だとついガンガン問い詰めて、翠を窮地に追い込んでしまう。
だから今回は洋くんに託した。
君なら翠の心に優しく寄り添ってくれるはずだ。
積もり積もった翠の苦悩が、どうやったら解き放たれるのか。
ふたりで探って来て欲しい。
少しだけもどかしい気持ちは握り拳に込めて、俺は一気に山門を駆け上がった。
今日は月影寺の副住職として、頑張ろう。
帰宅した翠が寛げるように、戻ってくる場所を整えておこう。
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