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追憶の由比ヶ浜 39

 大船病院……採血ルーム。 「張矢翠さんですね」 「はい、そうです」 「では採血を致します。今まで注射で気分が悪くなったりしたことは、ございませんか」 「……はい」 「では腕を出して下さい」 注射は幼い頃から大っ嫌いだった。だが嫌な素振りは一度も見せたことがない。むしろ見本になろうと、率先して受けていた。何故なら……流の方が大変だったからだよ。    お前は注射が大っ嫌いで、病院から脱走して母さんにカンカンに怒られていたよな。僕がいつも宥めて受けさせていた。その後ろで丈は、冷ややかな目をして、最後にそつなく受けていた。 「あのぉ……視線が痛いのですが」 「へっ?」 「後ろの方って、患者さまのお付き添いの方ですか」  はっ!  振り返ると、いつの間にか採血室の中に、作務衣姿の流が立っていた。    廊下で待っていろと言ったのに、険しい目つきで僕を見つめている。 「す、すみません……弟ですが、どうにも心配症で……」 「えぇ? なんだ、弟さんですか。全然似ていないので、どういうご関係か悩んでしまいました♡」  ん? 何故か頬を赤らめながら言われて、こちらが恥ずかしいよ。 「では刺します。手をギュッと握っていて下さい」  ブスッ――    痛いっ。  怖くて針から目を反らすと、流が壁にもたれて僕をじっと見つめている。 (翠、大丈夫だ……頑張れ!)    そんな声が聞こえてくる。  お前の穏やかな眼差しが心地良い。 「手を開いて下さい」 「は、はい」 ちらっと見ると、採血管が血の色になっていて、ひやりとした。  だが……この血は流と同じルーツを持っている。そう思うと愛おしく感じた。   「はい、お疲れ様でした。抜きますね。 ここを指で押さえて止血して下さい」 「分かりました」 「じゃあ、次はレントゲンですので地下1階へ移動して下さい」  部屋を出ると、流が心配そうに話しかけて来た。 「翠、怖くなかったか」 「もう、僕は子供じゃないんだから」 「だが……」 「ふっ、怖くなかったよ。お前の視線が気になって、それどころじゃ」 「ふふん、そうかそうか。次はレントゲンかぁ……流石に入れないな。技師の前で上半身は裸だろう~くそっ」 「ちょ、声が大きいよ。大人しく出来ないのなら帰ってもらうよ」 「兄さん、酷いな」  レントゲンの次は聴力検査、そしていよいよ、問題の視力検査だ。 「んー、視力がずいぶん落ちていますね。視界がぼやけることがあるのでは……眼圧検査と眼底検査もしましょう」 「はい」  眼圧や眼底には異常は見つからなかったので、やはりまた『心因性視力障害』なのだろうか。  僕は心が弱い……あの暗黒の日々を、再び繰り返そうとしていたのか。  洋くんに由比ヶ浜で弱音を吐き出すまで、克哉から受けた辱めを忘れたいと思うのに、わざわざ掘り返しては、自分の心を痛めつけていた。流に抱かれる度に、胸の火傷痕が疼いていた。疼くと心臓がズキズキと痛んだ。 「張矢さん、眼科の予約をしましたので、明日もう少し詳しい検査を」 「……分かりました」 「次は心電図です。1時半になったら今度は2階のここに行って下さい」 「……はい」  ふらりと廊下に出ると、よろけてしまった。 「大丈夫か」 「ん……少し疲れた」 「部屋で休憩しよう」 「うん」  **** 「翠、少し横になれ。何のために入院して検査しているんだ?」 「こんな明るいうちから横になるなんて……一気に年を取ったみたいだ」 「馬鹿、翠は若々しくて艶めいている。ほらっ」  個室の扉はしっかり閉めた。ベッドを囲むカーテンにも隙間はない。  だからいいよな。  苦手な検査を頑張っている翠に、熱い褒美を与えても。 「りゅ、流……困る……よ」  ベッドに翠を横たわらせ、俺も一緒に中に潜り込んだ。 「頑張った褒美だ」 「え……」  目を丸くして俺を見上げる翠の、少し開いた唇に吸い付いた。 「ん……っ、ん……」 「余計なこと考えんな。視力ならこれ以上悪くならない。翠はもう吐き出して、自分から治療を受けようとしているのだから。翠は……もう大丈夫だ」 「ん……っ、流がそう言ってくれると、そう思えるよ」 「素直で可愛いな、兄さん」 「や……っ」  俺を見上げて微笑んでくれた顔があまりに可愛くて、その細い首元にも口づけしてしまった。  翠は、喉元が過敏なんだ。  俺が舌でつつけば、細かく震え、赤く染まる。 「注射も頑張ったな」 「やっぱり……注射は……嫌いだ」 「ふっ、そうだよな」  翠が幼い頃から飲み込んできた言葉は、俺にだけは吐き出せるようになっていた。 「翠、いい傾向だ。俺にはもっともっと甘えてくれよ」  それが嬉しい。    ****  翠兄さんの検査は順調だろうか。  少し空き時間があったので、もう一度兄さんの個室を訪れた。  すると入り口の扉も、中のカーテンもびっしりとしまっていた。  うーむ、これって何を意味する?    「張矢先生!」 「あぁ君か」  兄さんの担当看護師に背後から声をかけられた。   「お兄様の検温に参りましたぁ♡」  どう対処すべきか迷うな。 「……昼の検温はいい。ここは私が様子をみるので、下がっていいから」 「えぇ~残念。そういえば、先生! 先生の妹さんって、超美人ですよね~」 「へっ?」  妹なんていないが、と答えそうになって……飲み込んだ。  洋のことだ。  女装した洋が翠兄さんの病室を訪れたので、そう思ったのだろう。 「翠さんと似ているから、名乗らなくても分かりましたよ。はあん~美男美女兄妹、最高です」 「君、私語を慎みなさい」 「あ、すみません~、でも私たちの推しはですね! 端麗な長男さんや野性味のある次男さんでなく、いかなる時も冷静沈着なゴッドハンドの持ち主、我が大船病院が誇るゴッドハンド! 丈先生ですので、ご安心を~♡」  タタタっと去って行く看護師に、呆気にとられた。  何を言われたか記憶にないが、確か……私の手を『ゴッドハンド』と言ったようだ。  ふっ、やはりな。この手は洋を生かす……艶めかす手だ……だから。  自分の両手を見つめ、にやりと微笑んでしまった。 「おっと、いやらしいな~ じょうちゃんは。自分の手をうっとり見つめて思い出し笑いなんてしちゃってさぁ」  冷やかす声は、流兄さん。  その後ろに頬を染めた翠兄さんがいた。 「に、兄さん! 病院ではよして下さいよ」  

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