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ある晴れた日に 1
その晩、母が使っていたベッドで眠らせてもらった。
もう母の残り香など……あるはずない。母がこの部屋を最後に使ったのは18歳の時だったので、何十年も経過している。なのに、胸に込み上げてくるのは、懐かしい母の匂いだった。
俺の記憶が覚えているのか。綺麗で優しくて、透き通って消えてしまいそうだった母の匂いを。
その晩、やはり夢を見た。
母に逢えた。もう顔もおぼろげだった父もいた。
ふたりは俺を抱きしめ泣いた。
『苦労したな……洋』
『ごめんね、ごめんね……洋、ごめんね……私が道を間違えたばかりに……あなたにまで』
『母さん、言わないでくれ。それ以上はもう』
『う……うっ、洋。私の宝物の洋……』
二人の涙は温かかった。もうこの世にいないのに、どうして?
笑って……笑っていて欲しい。
俺はもう笑えるようになったから大丈夫。
どうか安心して欲しい。
ぽとり……
頬に水滴が落ちたのを感じ目覚めると、祖母の顔が近くにあった。
「おばあさま?」
「あ……ごめんなさい。ようちゃん、おはよう」
「……おはようございます」
祖母は気まずそうな表情を浮かべていた。自分の頬を指先で拭うと、確かに濡れていた。
これは涙……? 夢ではなかったのか。
「おばあさま、どうして泣かれたのですか」
「ごめんなさい。あなたの寝顔があまりに夕にそっくりで……」
「いいんです。ずっと俺は男なのに……何故、母さんそっくりなのか、ずっと不思議でした。恨んだことも……でも今、俺は自分の顔が好きになりました。おばあ様に母の面影を感じてもらえて嬉しいんです。だから何度でも言います。俺を通して母を探しても構いません」
「ようちゃん」
祖母が俺を呼び、俺を抱きしめてくれると、夢のような儚さではなく、血の通った人肌を感じ安心出来た。
「おばあ様に逢えてよかった。あの……大好きです」
普段なら俺の方からこんな台詞、とても恥ずかしく言えない。でも俺は敢えて伝えていく。母が伝えきれなかった想いを背負っているから。
俺の中に眠る母の、祖母への思慕の情を解放していく。言葉に出して、行動して、解放し続けていく。
人と人は永遠ではない。
いつか来る別れの日、それは避けられない。
ならば、今を――
今を大切に。
伝えきれない言葉があるならば、出せばいい。
もう俺は我慢はしない。
「ようちゃん、私も大好きよ、あなたに会えて良かった」
窓の外はよく晴れていて、春の息吹を感じる庭には色鮮やかな花が咲いていた。
母もかつて、この風景を見たのだろうか。
巡り巡って、漸くここまで辿り着いた。
そのことに感無量の朝だった。
「じゃあ支度をしたら下りていらっしゃい。今日はお天気がいいからテラスで朝食を取りましょう」
「はい。あの、俺の服は?」
泊まるつもりなかったので、再び昨日の服を着ようと思ったが、見当たらない。
「あれはお洗濯に出したわ。今日はね、ようちゃんに着せたくて買っておいたお洋服があるのよ。大丈夫、今度はワンピースじゃないわ」
「お、おばあ様ってば!」
少女のように笑う祖母が眩しかった。
白いベッド、白い机、白い椅子に洋服ダンス。淡い夕暮れ色のカーテン。オレンジシャーベットのような絨毯。
優しい色でコーディネートされた母の部屋で迎える心穏やかな朝だった。
着替えようとしていると、丈から電話があった。
「丈、おはよう!」
「洋、おはよう。昨日は楽しかったか」
「うん。ありがとうな。ゆっくり母の思い出に触れ合ったよ」
「そうか、こちらも有意義な夜だった」
丈の声が満足気だったので、不思議に思った。
「いいことでも?」
「あぁ、月影寺の月に逢ってきた」
「?」
「それで……洋に改めて相談したいことがあるんだ」
「何?」
「会って話すよ。今日は夕方までそこにいるといい」
「どうして? ひとりで帰れるよ」
そこまで言うと、丈がコホンと咳払いをした。
「私が迎えに行く」
「え?」
「東京でセミナーがあるんだ。だから帰りに寄るよ」
「分かった。じゃあ一緒に帰れるんだな」
「あぁ一緒に帰りたい」
通話を終えると、込み上げてくるものがあった。
幸せだよ、丈……
優しい祖母、母の部屋……
愛しい丈が俺を迎えに来てくれる。
最高に幸せだ。
ありがとう――
傷ついて自ら消そうと思った身体を、ギュッと抱きしめた。
自分の存在が愛おしい。
こんな風に思える日が来るなんて、やっぱり最高だ。
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