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蛍雪の窓 19
薙が通った学び舎を、この目にしっかりと焼き付けておこう。
同時に、ここは……
流が通った学校。
流が歌った校歌。
流が過ごした学び舎。
そう思うと、ますます愛おしくなるよ。
中高一貫の私立に通っていた僕と、違う道を歩んだ流だった。
今だから言うと、流との年の差が恨めしく思ったこともあったんだよ。
流が生まれてからは振り返ればいつも傍に流がいた。 利かん坊で甘えん坊、いつも僕にくっついていた弟は、本当に可愛い存在だった。だから最初は流が傍にいないことに慣れなかった。
中学、高校、大学……そして結婚と流が不在の日々は、大切なものを忘れているような空虚な日々だった。特に北鎌倉を離れた結婚生活、慣れない都会暮らしに僕の神経は衰弱し、何度心の中で流を呼んだことか。
流と疎遠になればなるほど、心の中の声は頻繁になった。
流、ここに来て欲しい。
流、傍にいて欲しい。
流……弱い僕を許して。
そんな狂おしい日々を経て、今がある。
今、僕の横で、渋い声で校歌を歌う流。
その低く響く声に、じんと胸を打たれた。
皆、流の美声に聞き入っているのだろう。ちらちらと振り返る保護者の落ち着かない様子からも分かるよ。
それほど迄に僕の流の歌声は素晴らしいのだ。流の良さを分かってくれてありがとう。皆さんお目が高いですね。
誇らしい気持ちが昂ぶって、つい住職の習慣でニコッと微笑み返しをすると、流にギョッとされた。
「ん? どうした?」
「翠、何やってんだ?」
「兄としてお礼を言ったまでだよ」
「はぁぁ?」
どうも僕は人と少し感じ方が違うのかな? 流に呆れられてしまったようだ。うーん……これは僕が寺の風変わりな小坊主、小森くんと気が合う理由の一つかもしれないね。
式は厳かに流れ、卒業証書授与へと移行した。
「翠、そろそろ薙の番だぞ」
「うん」
C組の生徒の名が呼ばれ出したので、僕も居住まいを正した。
「森 薙」
「はい!」
薙の声が響く。
少し緊張した声は、僕に似ているようだ。
「あっ……そうか」
今になって彩乃さんの『森』の姓を名乗っていることに、違和感を抱いてしまった。
離婚時、僕の精神面はボロボロで、争う余裕もなく薙の親権は彩乃さんに渡ったが、果たしてこのままでいいのか。僕には「面接交渉権」しか与えられなかったが、14歳の薙を僕に託して彩乃さんはフランスに行ったきりだ。このまま『森』という姓を名乗り続けて行くのはいかがなものか。
離婚当時5歳だった薙も15歳だ。一度本人の気持ちを確かめてみたいが、無理強いだけはしたくない。あくまでも薙の気持ちを尊重したい。
流も同じ事を考えているのか、少しだけ険しい表情を浮かべていた。
式は、式辞、祝辞、送辞、答辞とつつがなく進行し、最後は『蛍の光』を合唱した。
『蛍の光窓の雪 書読む月日重ねつつ 何時しか年もすぎの戸を 開けてぞ今朝は別れ行く 止まるも行くも限りとて 互に思ふ千万の 心の端を一言に 幸くと許り歌ふなり』
青い歌声を聞きながら、僕は薙と過ごしたこの1年半を思い返していた。
夏休みの終わりに、薙は突然月影寺にやってきた。
空港に迎えに行ったのは流で、僕は彩乃さんの言うなりで情けない父親だったね。それでもようやく一緒に暮らせるようになったことが嬉しかったんだよ。薙に近づきたくて、蛍の淡い光や雪明かりのような微かな希望と努力を重ねて過ごした。
君は僕の大切な息子だ。
共に過ごせば過ごすほど、その思いは強くなった。
月日は過ぎ去り、今日はいよいよ中学卒業という巣立ちの朝だ。
薙はどこにもいかないで、ここにいてくれる。当たり前のように北鎌倉に残ることを希望し、流の通った高校への入学を決めてくれた。
そんな薙の思いに、僕は一言「幸あれ」と願う。
薙、卒業おめでとう!
どうか幸せになっておくれ。
君は僕たちの大切な息子だ。
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