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翠雨の後 2

 月影寺の離れ。  ここには、俺の丈の住処がある。  寝室の大きな窓に、カーテンはつけていない。 ここ私有地で他人は立ち入ることは許されていないし、竹林がカーテンのように離れを包んでくれているので不要だ。  いつも人から隠れて生きて来た俺が、心身共にのびやかに過ごせる場所だ。  早朝、目覚めたのには理由がある。    それは、今日が4月1日だからだ。  かつて俺にとって今日は全ての終わりで悪夢の始まりだったことがある。  竹林に目をやると、ひらひらと天から舞い降りるものが見えた。 「あれは……なんだ?」 「……桜の花びらだ。今日は風が強いから山門のソメイヨシノが散っているのだろう」  剥き出しの肩に、丈がブランケットをそっとかけてくれる。 「洋、随分と無防備な姿だな」 「それは、お前がしたんだろう」 「私の温もりであたためてやりたかったんだ」 「一晩中……温かかった」  心と身体で温めてもらったから、寒くはなかった。  怖くもなかった。 「……あっという間に、四月だな」 「今日は洋のお母さんの命日だな」 「覚えていてくれたのか」 「もちろんだ」 「あの日もこんな風に病室の窓辺にもの花びらが……届いていたんだ」 「静かなご臨終だったようだな」 「あぁ……世界の終わりさ。花が散る音しかしなかったよ」  幼い俺を置いて一人で旅立った母を思い出し、つい感傷的になってしまった。  すると丈が背後から強く抱きしめてくれた。 「洋、どうした? 心がざわついているぞ。深呼吸しろ」  俺はバックハグされるのが好きだ。  背中から伝わる愛情で満ちていけるから。 「あ、あぁ、悪い」 「洋、花が咲く音を聴きに行かないか」  花が咲く音。  それは丈との結婚式で聞こえた音だ。 「久しぶりに聴きたい。今でも聞こえるかな?」 「心が凪いでいれば……きっと」  そんな理由で俺は夜も明けきらぬ早朝、丈と外に出た。  丈は朝から白衣を着こんで、神妙な面持ちだ。 「洋、今からお母さんに会いに行こう。私は花を摘んでくるから、先に行って挨拶しておいで」 「ありがとう」  一人で向き合う母の墓。  桜の花びらが優しく墓に積もっていく幻想的な光景に、心が緩んだ。    母さん、元気ですか。  この春、俺、京都で父さんのお兄さん……つまり伯父さんに巡り逢えました。不思議な邂逅も体験しました。ここに夕凪さんと母さんの墓が並ぶのにも、理由があったのですね。  すべては縁――だった。  そう思えば納得できる!    カサッと音がしたので振り向くと、流兄さんだった。また竹林を走り回ったらしく額に大粒の汗を浮かべ、匂い立つような雄々しさを撒き散らしていた。  その生命力溢れる姿に、ふと泣きたくなったのは何故だろう。  今日だからなのか、母の命日だからなのか。  丈が白い花を抱えて戻ってくると、流兄さんは何かを察したようで去って行った。  そこで、ようやく俺の瞳から涙が溢れた。  丈が無言で近づいて、抱き寄せてくれる。  丈の白衣の匂いに懐かしさが込み上げ、温もりに愛おしさが込み上げてくる。 「洋……どうした? 私が洋の涙に弱いのを知っているだろう」 「ごめんな。何故だか急に泣きたい気分に……うっ」  この涙はどこから湧き出てくるのだろう。  もう母が亡くなった日のように、俺は一人じゃない。  丈がいる。  兄がいる。  友もいるのに――  なのに、何故? 「洋、人には訳も分からず泣きたい時があるものだ。洋が乗り越えてきた月日が、涙を運んでくるのかもな」 「丈……ごめん。俺、相変わらず……強がりで泣き虫な……寂しがり屋だ」 「それでいい。もう少ししたら、私が洋と四六時中一緒にいられるから待っていてくれ」 「俺はそれが嬉しい」 「私がずっといるのは鬱陶しくないか」 「ん? 不思議なことを問うんだな? 俺は少し変わっているから大丈夫だ」 「ははっ、言ったな。では、朝から晩まで、とことん付き合ってもらおう」  丈が珍しく上機嫌に笑ったので、俺も漸く笑えた。 「ありがとう、いつも、いつも……」 「それはこちらの台詞だ。私の独特な性格を愛してくれてありがとう」  二人で母の墓標に祈りを捧げ、歩き出した。  新年度の始まりだ。  世界が動き出す!  

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