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翠雨の後 9

 明日は4月7日。    いよいよ薙の高校入学式だ。  『張矢薙として入学出来るように、手筈は整えた。  何か一つでも前の姓のままになっていたら台無しだ。  抜かりはないか、気になって仕方がない。  夕刻、住職としての仕事を終え自室に戻ると、流がヒョイと顔を覗かせた。 「翠、明日は何を着ていくつもりだ?」 「卒業式用に作ってもらったスーツのつもりだよ」 「あ、しまった! クリーニングに出したままだった。今から取ってくる」 「じゃあ僕も一緒に行くよ」 「翠も? 珍しいな」 「うん、少し外を歩きたい気分なんだ」 「よし、じゃあ行こう。だが、その格好でいいのか」 「……着替えたいな」 「了解、今日はどんな格好にしようかな」  こんな時の僕は、まるで流の着せ替え人形のようだ。あっという間に、ジーンズにトレーナーという年甲斐もなく若い姿にされていた。 「流っ、これは流石に若作りだ。怪しい変装みたいだよ」 「ははっ、翠は何でも似合うよ」 「……恥ずかしいよ」 「たまにはいいだろ、なぁ、兄さん!」 「もう、しょうがないなぁ」  そういう流もご丁寧に作務衣をポイポイ脱ぎ捨て、ジーンズとトレーナーになっていた。  流はまるで大学生みたいだ。  あの頃は心がすれ違って何一つ良い思い出を作れなかった。  だからなのか―― 「せっかくのデートだから、ペアルックだ」  流が嬉しそうに目を細めている。 「流、よく似合っている。その……僕はともかく」  僕には無縁だったカジュアルな格好に、ぎこちなくなってしまう。 「翠はいつもスーツか袈裟しか身につけないが、そういう姿も見たかった」 「……そうかな?」 「本当は少し息抜きさせたかった。どうせ明日の入学式に向けて妙な緊張をしていたんだろう」 「どうして分かる……図星だ」 「翠は素直になったな。それより何年翠の傍にいると思って? 俺はずっと見てきたんだから当然だろ」 「ずっと見守ってくれていたんだね」 「あぁ、そうさ! 翠だけを一途に」  弟の気持ちが嬉しかった。  一時はお互い大きく隔たり離れたこともあったが、今は違う。  作れなかった思い出を後悔する暇があるのなら、今から作ればいい。 「流、少し走ろう!」 「へっ? 兄さん大丈夫か」 「酷いな。僕だって身体は鍛えているよ」 「そうだな、じゃあバスケしないか。実はこの先にバスケットゴールがあるんだ」 「こんな住宅地に?」  流に誘われるまま、僕は歩き出した。 「本当にこんな場所にバスケットゴールが?」 「豪邸の一角にあるのさ。持ち主は高齢のじいさんだが、若い頃はバスケットの有名な選手で、地元の人達に自由に使わせてくれているんだとさ」 「知らなかったよ。流は流石、情報通だね」 「俺は山伏のように、北鎌倉の山という山を渡り歩いているからな」 「流は山伏じゃない。月影寺所属だ」    つい子供みたいなことを言ってしまった。  これでは独占欲、丸出しじゃないか。  まるで僕専属だと……  頬が火照るのを感じた。 「翠、サンキュ! 最近の翠は我が儘で嬉しいよ。ほら、この角を曲がった所だ」 「楽しみだな。バスケなんて高校の授業以来だ」 「翠のフォームは綺麗だろうな」 「どうかな?」  二人で角を曲がると、あっと息を呑んだ。  そこには先客がいた。  若い男の子が一人で黙々とバスケをしていた。  目深にキャップを被っているので顔はよく見えないが、スタイルが抜群にいい。  そして、バスケが最高に上手い。  ボールを持って綺麗なフォームでシュートすると、吸い込まれるようにゴールが決まっていく。レイアップもダンクもフックも軽々とこなしている。 「上手いな。プロか」  その時一陣の風が吹いて、彼の被っていた帽子を飛ばした。  現れた綺麗な横顔は……  夕日に照らされた美しい顔は……    

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