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翠雨の後 31

「着替えの順番を間違えたか」  スーツ姿で朝食作りはなかなか大変だと苦笑しつつも、口元には笑みが零れていた。  翠の袈裟を脱がし、スーツを着せるのは大好物だ。  翠がただの男になる瞬間を見られるからな。  しかし……今日は、いつもと少し様子が違ったぞ。  全く……俺をリードして、惑わして……  困った人だ。  いや、可愛い人だ。  翠は、生まれた瞬間から傍にいる二歳年上の兄だ。  最初は無邪気に、無条件に、ただひたすらに兄が好きだった。    とにかく傍にいたかったし、くっついていたかった。  しかし……2歳の年の差があるのだから当たり前だが、翠は俺を置いて幼稚園に行ってしまい、やっと一緒になれたと思ったのも束の間、小学校に上がってしまった。  今では俺の方がはるかに背も高く、体格もいいが、幼い頃の年の差は大きかった。  ほっそり優し気な眼差しの翠を、ただ見上げるだけの日々。    やがて、憧れの眼差しで見上げていたはずなのに、それがもどかしくなってきた。  何度、一気に跳び越えて同級生になりたいと願ったことか。  何度、悔し涙を飲み込んだことか。  思春期は、辛かったな。  沸き起こる感情と、突き上げてくる欲情に、戸惑った。  兄にこんな感情を抱いては変だ、駄目だ。  頭では理解しても止められなかった。  密かな愛を膨らませ……高校こそは兄と同じ高校に通ってみせると思ったのに、不合格。  あれはキツかった。  結局県立高校に通うことが決まり、最初は自暴自棄になって荒れてしまった。  だが、由比ヶ浜高校は、俺に合っていた。    今でも目を閉じれば思い出す。  教室の窓から見えた、どこまでも青い海、どこまでも青い空。  あの開放感は最高だった!  兄のことで悶々と燻っていた気持ちを、自然が癒やしてくれた。  かなり自由に過ごさせてもらったおかげで、芸術分野に目覚めたのさ。 「流さん、おはよう!」 「おぅ」  背後から声を掛けられ振り向くと、ブレザーの制服を着た薙が立ってた。  翠の高校時代にそっくりな顔をして、俺が着たのと同じ制服に身を包んでいる。これは……最高だぞ! 「どうかな? 大先輩」 「ネクタイが決まってるな」 「ありがとう!」  ピシッと決まっているネクタイに、翠の嬉しそうな顔を浮かんだ。  俺を実験台に夜な夜な練習したから、バッチリだな。  翠は不器用だから、何度首を絞められそうになったか、その度にお詫びでキスしてもらったからまぁいいが……最後はネクタイで少し遊ばせてもらったしな。っと、朝から不謹慎過ぎるな。  ニマニマ。  また口角をが上がってしまう。 「……いやらしいなぁ」 「え?」 「流さん、デレすぎだろ!」 「あぁ、悪い……つい」 「なんだか……今日は父さんの方がかっこいいや」  薙が欠伸をしながら食卓に座ったので、慌てて駆けつけた。 「薙、ちょっと待て。カッコいいのは俺の特権だ」 「流さんは最近……くくっ、父さんに甘すぎ。いや、父さんが流さんに甘いのか」 「え?」  まるで俺たちの練習風景を見たかのように言うから、焦った。 「あ! 流さん、味噌汁が沸騰しているよ」 「わ! ヤバい」  お盆に白米になめこの味噌汁、鯵の干物にだし巻き卵、ほうれん草のおひたしなどを丁寧に盛り付けて出すと、薙が手を合わせてお辞儀した。 「いただきます! いつも思うけど……旅館並のご馳走だね。流さん……あのさ、高校に入ったら弁当がいるんだ。作ってもらえるかな?」 「当たり前だ。弁当は俺の係だ。翠は危なっかしいからな」 「そうだよね。俺も不器用だけどさ、父さんは相当の……」  背後でスッと風が動いた気がしたので、振り向くと翠が少しムッとした様子で立っていた。 「僕だって、たまに作るつもりだ。流に教えてもらってね」 「え? 毒味させるの?」 「薙!」 「ははっ、ご褒美付きなら、いつでも教えるさ」 「ご、ご褒美って……またあれを?」  翠はサッと澄ました顔を赤らめる。 「ほら早く食べて支度しないと、初日から遅刻だぞ。俺みたいに」 「えー! 流石流さん、初っぱなから遅刻したの?」 「まぁな、ところで薙、『張矢』の姓は、由比ヶ浜高校では超有名だぞ」 「そっか……オレ……『張矢』なんだね、もう」 「あぁ、だから覚悟しとけ!」  賑やかな朝だった。  こんな朝を待っていた。  高校時代の膨れっ面の俺に教えてやりたい。  お前、いずれ最高に幸せになれるよ。  翠によく似た息子と笑っているぞ。    だから今は辛抱しろと……  

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