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雲外蒼天 14

「鷹野、いい結果だったぞ」 「そっすか」  専属トレーナー(鬼軍曹)に背中をバシッと叩かれた。  イテテ…… 「ん? まだ発散し足りないのか、筋骨隆々として、まだまだ元気そうだな。もっとやるか」 「え? いやいやもう充分です」(ってか、残りは涼のために温存してるんですけど~) 「お前のスケジュールは……明日はボディガードの仕事はないので内勤だ。準備もないし、今日はもう帰っていいぞ」 「え?」  時計を見ると、まだ4時だぞ。 「えええ?」 「この前、急な残業させたから、それと引き換えだ」 「うぉー 恩に着ます」 「ほら、もう帰れ、帰れ」 「帰らせていただきます。では!」  シュパッと着替え、ドドッと駆けだした。  最高じゃないか。  こんな時間に職場を出られるなんて。  今日がどんな日か上司は知りもしないだろうが、俺は昼前に涼からのメールを見て、既に駆けだしたい気分だったんだ。  月影寺に行こう!  涼に会いに行こう!  今から行けば5時過ぎには着けるだろう。  ワンピースを着てふんわりと薄化粧した妖精のような俺の恋人を、この腕で抱きしめに行くぞ! **** 「張矢先生、お疲れ様です。今日のスケジュールはすべて終わりました」 「ん? もう終わったのか。妙に今日はスムーズだったな」 「そうなんですよ。待合室がガラガラで驚きましたよ。1年にそう何度もない空いている日でしたね」 「そうか、そういう日もあるよな。君ももう帰るのか」 「えぇ、帰れる時は帰ります」  帰れる時は帰るか。  実に素直な決断だ。  私もそれに従おう。 「私も帰る」  そう告げると、看護師がふふっと笑みを漏らした。 「今の、何か面白かったか」 「いえ、いえ、よかったですね。愛しの奥さまの元に早くお戻り下さい」 「……いや、その」 「愛妻家の張矢先生って医局で有名ですよ」 「……帰るよ」  愛妻家か。    少しニュアンスは違うが、認めよう。  今日のような日は、愛しい洋が待つ家に1分1秒でも早く戻りたい。  いつも仕事優先になってしまい、寂しい思いをさせているから。  洋も医療ライターとして外の世界に飛び立とうとしたこともあったが、結局、私が海里先生の診療所を継ぐ話が現実となり、診療所の手伝いをしたいと申し出てくれた。だから医療ライターの仕事は、キリがいい所でやめてしまった。  私が諦めさせてしまったのか……  いや、そうではない。  諦めたのではなく、私と足並みを揃えてくれたのだ。  私と洋の結びつきは、この世の人生だけではない。  過去の自分たちに引っ張られることはもうないが、今の私たちは強く引き寄せ合っている。  白衣を脱ぎ、静かな廊下を靴音を立てながら歩く。  駐車場への扉を開けると、一気に下界に降りた気分になる。 「さぁ、戻るぞ。洋もそろそろ帰ってくるだろう」  アクセルを踏んでハンドルを切れば、すぐに大船市外に出る。  北鎌倉の駅前を通過すれば上り坂だ。  徒歩だと息が上がるほど延々と続く坂道でも、愛車なら一気だ。 「ん……?」  前方に人影発見!   黒いスーツ姿で、坂道を駆け上がる男にはよく見覚えがあった。  横に停車させ、声をかける。 「なんだ、安志くんか」 「お! 丈さんも早いお戻りですね。俺と同類だ!」  ニカッと笑う屈託のない笑顔の下に、下心が満載のような気がして苦笑してしまった。 「乗るか」 「いや、もう少し発散していきます!」 「すごい体力だな」 「有り余ってます」 「ふむ」  涼くんに会いに来たのだろう。  妖精のような涼くんを一目、生で見たい気持ちは分かる。  私だって同じだ。    つんけんしていても根は優しい洋だから、夜まで天女のような姿で待ってくれると申し出てくれたが、幸せな時間を過ごした恋人をこの腕で受け止めてやりたかった。  車を駐車場に停めて山門に向かうと、安志くんが息を切らせて石段に腰掛けていた。額には大粒の汗が浮かんでいる。 「ここで待つのか」 「いつも待たせてばかりなので、待ちたいんです」 「……それは私もだ」  だから二人肩を並べて、愛しい人の帰りを待つことにした。      すると何かを求めるような鳥の鳴き声が山から聞こえ、風に乗ってどこからか和歌が届いた。  これは……遠い昔、私が丈の中将と名乗っていた頃に触れた和歌…… 『ホトトギス人まつ山に鳴くなれば我うちつけに恋まさりけり』(紀貫之)  ホトトギスが松の山で鳴くと、愛しい人を待つ私の恋心も無性に掻き立てられる。  洋……待っている。  私はここで待っている。

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