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天つ風 1

 季節は進み6月上旬、月影寺の庭の新緑が眩しい季節となっていた。  1日の勤めをつつがなく終え、僕はゆったりと縁側に腰掛ける。  ここで庭を眺めるのが昔から好きだ。 「あ……そうか、もうすぐ梅雨入りか」  少しだけ風が湿っていた。 「父さん、ちょっといい?」 「薙、今帰ったの? お帰り」  振り返ると制服姿の薙が立っていた。   「ただいま! 腹減った~ あ、そうだ! これ『体育祭の案内』だって。親に渡せって言うからさ」 「そうか、ありがとう」  もう体育祭の季節なのか、懐かしいな。  僕が大学生の時、両親に頼まれて流の体育祭を観に行ったのを思い出した。出来れば会いたくない人がいたから迷ったが、流の姿を一目見たくて、目立たないように人山の背後からそっと見守った。  流は高校2年生になっていた。  日焼けした流は学内でかなり目立つ存在のようで、流が通るだけで女の子がキャーキャーと黄色い歓声をあげていた。  リレーで緑のバトンを受け取った流の躍動感溢れる走り、組体操では倒立で体操着のシャツが大きく捲れ、筋肉隆々の逞しい身体を惜しげもなく晒し、また黄色い歓声を浴びていた。  僕はそれを複雑な気持ちで見守った。  思えばもうあの頃から、いやもっと前から、僕は流を弟としてではなく、熱の籠もった視線を向けていたのかもしれない。  必死にその波打つ感情を平らにして、平常心を心がけていた日々が懐かしいよ。  長く苦しい年月も過ぎ去れば思い出となり、このような余韻を生むのか。 「父さん~ 聞いてる?」 「え? あぁごめん」 「いいよ。どうせ思い出に耽っていたんだろ?」 「図星だよ。懐かしいなって。父さんは男子校で体育祭は閉鎖的だったけど、由比ヶ浜高校の体育祭は開放的で楽しかったよ」  そこまで話すと、薙がペンを持ってくる。 「ん?」 「ここに丸して」 「ここ?」 「そっ『観覧希望します』でいい?」 「えっ、僕が行ってもいいの?」 「当たり前だろ、父さんなんだから。でも都合つくの?」 「雨が降らなければ金曜日か。平日なら出やすいよ」 「じゃっ、来てもいいよ。あ、あとさ……俺、応援団やることにした」  薙が応援団か。    薙は流に似て凜々しく逞しい子だから似合うだろうな。  今度は未来を想像してニヤついてしまう。 「でさ、応援団といえば、学ランだって団長が言うんだ」 「でも薙の学校はブレザーだよね」 「だから知り合いから借りて来いってお達しが」 「へぇ、イマドキだね、他校から借りるなんて」 「あのさ。父さんのある?」 「えぇ? 僕の?」  これには驚いた。 「うーん、どこにあるかな? 母さんに電話して聞かないと」 「あったら借りていい?」 「もちろんいいけど、劣化してないかな?」 「父さんの綺麗そう。父さんは品行方正で優等生だったんだろうなぁ」 「さぁ、どうだか?」  そこに流がすっ飛んでくる。  くすっ、どこから話を聞いていたのか、鼻息が荒いね。 「今、いい話を聞いたぞ! 翠の学ランを発掘するのか。ジャージだって着られたんだ。学ランも無事に決まっている」 「流……ちょっと落ち着いて」 「ははっ、悪い。どこにあるのか見当がつかん。母さんに電話してくるよ」  浮き足立つ流の後ろ姿に、苦笑してしまった。 「流は相変わらずだね」 「俺が着ても殺されないかな」 「薙は僕達の子だから大丈夫だよ」 「そっか、役得だな」  薙が朗らかに笑ってくれるのが嬉しかった。  僕たちのことを、薙は受け入れてくれている。  愛しい我が子だ。  回り道をしたのは薙と出会うためだったのかもしれないね。 「高校はどう? 友達は出来た?」 「父さん、小学生に聞くみたいだ」 「ごめん、ごめん」 「いや、嬉しいよ。こういう関係も悪くないな」  薙が小学生にあがる前に離婚してしまい、ろくに会わせてもらえなかったから、薙がどんな小学生だったのか分からない。だから、つい聞いてしまった。 「あのさ、今のオレを大切にしてくれてありがとう」  この言葉を与えてもらえるだけでも、信じられない奇跡。  一度は壊れてしまった親子関係を修復出来たのは、薙の心が僕を受け入れてくれたからだよ。 「照れるな、おやつ食ってくる! まだ小森くんいるかな?」  薙が顔を赤くして走り去る様子に、笑みが零れた。  幸せとは、小さな喜びの積み重ねなんだね。  僕も宗吾さんや瑞樹くんたちのように、日常の中に蒔かれた『幸せの種』を育てていこう。  月影寺に降り注ぐのは、きっと慈雨――

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