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天つ風 9
「急で悪いな、張矢」
「いえ大丈夫です。来週でも問題はありません」
今日は当直の予定だったが、先輩の都合で交代した。
つまりこのまま帰宅出来ることになった。
ならば、もう帰ろう。
早く戻ろう。
最近の洋は月影寺で一人で過ごす時間が長く、口には出さないが、いつも私の帰宅を待ち侘びているようだ。
思えば、私は洋をいつも待たせている。
診療所の件もそうだ。
暫く待たせることになってしまった。
由比ヶ浜の洋館は大正時代に建てられた建築物だ。耐震性が心配で診断してもらった結果、やはりかなり大規模な耐震改修工事が必要だった。そこで診療所として患者さんに安心して通っていただけるように、全面的に工事をすることになった。夏前には開業したかったが、かなり先になってしまった。
おそらくこの調子だと1年先にずれ込みそうだ。
期待させた分、洋は長く感じているだろう。私の診療所を手伝うと決めて、翻訳や医療ライターの仕事を悉く断ってしまったので、手持ちぶさたなのではないか。
……
「洋、やはり耐震工事はかなり大事になるそうだ。暫く延期になるので、それまで、もう一度翻訳の仕事を受けたらどうだ?」
促してみたが、洋はフッと男らしい笑みを浮かべるだけだった。
「いや、もう道は決めた。じゃあ待つ間に通信教育で医療事務の資格を取るよ」
「いいのか」
「もちろんだ。丈と俺はいつも一緒だろう」
……
洋の気持ちが有り難かった。
ずっと一人だった私は、一人ではなくなった。
ずっと洋と生きていける。
それが嬉しかった。
目を閉じて恋人の美しい顔を思い浮かべた。
月影寺の山門に立ち月光を浴びる洋の横顔は格別だ。だが同時に憂いを帯びた瞳に、胸が切なく締め付けられる。
洋は男らしい部分と儚い部分を持ち合わせている。
ヨウであった過去と洋月であった過去、そして夕凪。
月が次々と姿を変えるように、洋も変わっていく。
だが何も恐れることはない。
どんな洋でも洋なのだから。
私が帰宅することを知ったら、洋はさぞかし喜んでくれるだろう。
だから車を走らせる前に、車中から電話をかけた。
洋は通常通り仮眠室からのラブコールだと思い込んでいる様子だった。
「じょ、丈、どうしたんだ?」
ところが様子が、明らかに変だった。そわそわと落ち着かず、まるで洋の近くに誰かいるようだ。これは男の勘だが……
洋が兄さんたち以外の誰かを離れに入れることはまずないのに、とても気を許した誰かがそこにいるのでは? いや……覚束ない口調なのは、発熱しているのでは?
二つの可能性に、私の心は揺さぶられた。
確かめずにはいられない。この目で今すぐ!
「様子が変だぞ。心配だ」
「だ、か、ら、何でもない」
「もしかして熱があるのか。とにかく顔を見せろ」
「え!」
「洋、今すぐカメラに切り替えろ」
「うっ」
半ば強引に画像に変えさせた。
すると何故かアップで美しい顔が映し出される。
ずっとアップのままだ。
おい、不自然だぞ? ますます怪しい。
傍に誰かがいるのを見えないようにしているのか。
心配になって全身を見せろと強く言うと……
強い洋が顔を見せる。
俺を見据えるような流し目で、強い意志を放った。
男らしい面が全開になる。
洋の魅力に痺れる。
洋が見せてくれたのは、私の高校の制服を着ている姿だった。
参ったな――
私は私に嫉妬していたのか。
誰か私と同じ位洋を好きな奴がまとわりついている気配は、私の分身だったとは。
それにしても、洋の学生服姿は初めてだ。
ゴクリと喉が鳴る。
あんなに淡々と過ごした学生時代が、突然モノクロがカラーになったように輝きだした。
思春期に発作的に湧上がる情動、あれと似ている。
私の制服に身を包んだ洋に、激しく欲情した。
股間に熱が籠もるのを感じた。
「参ったな……洋、それは……反則だ」
動揺からスマホをポロッと落としてしまった。
そこで通話が切れる。
バクバクと動悸が激しくなる。
駄目だ、これでは運転に支障が出る。
もう一度電話をかけ直すことよりも、今すぐ洋の元に舞い戻る!
深呼吸してから、アクセルを踏み込んだ。
なんとか冷静に運転し、愛の住み処に戻ってきた。
車の停止位置がかなり曲がってしまったが、今日はこのままで。
山門に向かって駆け上がると、夜警をしていた流兄さんと出くわした。
「なんだ? 今日は当直じゃなかったのか」
「……急な変更で戻って来られたんです!」
フンと鼻息荒く告げると笑われた。
「良かったな。そうだ、これ持って行けよ」
「なんです?」
「俺が食べようと思っていた夜食のおにぎりさ。きっと後で腹が空くぞ」
「……有り難くいただきます」
「おぅ! 幸運だな。今日帰ってこられるなんて」
「えぇ」
どうやら流兄さんには、洋が私の学ラン姿でいるのがお見通しのようだ。
敵わないな、この兄には――
兄が今生で積み重ねた愛は、年季が入っている。
離れに戻れば、幸せな光景を目の当たりにした。
洋が私の学ランを着て……私に欲情していた。
理性は吹っ飛ぶ。
この先はいつものように洋を裸にして、執拗に全身を愛撫し、胸の粒に吸い付いて、蕾の周りを指で辿って、ありったけの愛で貫いた。
吹き上がる愛情。
大きな大きな愛で洋を包み、一つになった。
大海原を漂うように、二人は身体を絡めて船を漕ぐ。
行き先は一つ。
明日だ――
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