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天つ風 35
薙は必死に松葉杖をつきながら、病院の廊下を歩いていた。
皆、心配でそれに付き添う。
「いきなり大丈夫か」
「ううう、めっちゃ歩きにくい」
「焦らなくていい、直になれる」
「う……ん、うわぁ!」
予想通り不慣れな松葉杖にバランスを崩し、何度もよろけて倒れそうになってしまった。
「しっかりしろ」
「あ、ありがと」
その度に流兄さんがさっと手を貸していた。
叔父と甥っ子の関係も、良好のようだ。
翠兄さんはとそっと視線をやると、落ち着いた表情で二人を見守っていた。
もっと取り乱すかと思ったが、自分に骨折の経験があるのが大きいのか。
身をもって経験したことは良い意味でも悪い意味でも、身体がしっかり覚えている。
骨折は兄さんにとって未知の怪我ではない。
苦労も痛みも実体験済みだ。
この様子なら、兄さんに任せて大丈夫そうだ。
処方薬を受け取り、会計も済まし、ようやく家に帰れる段階となった。
だが、私はまだ仕事があって帰れない。
「私の車で送れずに、すみません」
「とんでもないよ、丈。忙しいのに仕事の融通をつけて駆けつけてくれて、薙を診てくれてありがとう」
翠兄さんに労ってもらう。
兄さんの言葉は不思議だ。
説法を受けたかのように、有り難い気分になる。
檀家さんが兄さんを見ると拝みたくなるという気持ちも分かる。
苦しみから解脱した人だからなのか、蓮の花のように佇む兄さんはとても尊い。
「あ、呼び出しが」
「丈、行っておくれ。僕たちは、ここで大丈夫だ。あとはタクシーで帰るよ」
「すみません」
私は呼び出しがかかったので、その場から消えることになった。
これはいつものことだが、残念だった。
私に出来ることはした。
私はいなくても大丈夫だ。
とはいえ、大事な甥っ子、翠兄さんの最愛の息子の様子が気になって、一緒に帰りたい気分だった。
全く、こんなことでは医者として失格だ。
一人執務室で今日1日のカルテのチェックを終えて、ようやく帰れる段階となった。
白衣を脱ぎ捨て、ドアを開けると人の気配がした。
この棟の廊下の電灯は薄暗く、よく見えない。
こんな場所に……誰だ?
「俺だよ。丈」
「洋か……どうして? 皆と一緒に帰らなかったのか」
「松葉杖や荷物もあるから、俺は乗らなかったよ」
「洋……」
思わず洋を執務室に招き入れて、抱き締めてしまった。
美しい顔を見たくて、顎を掴んで顔を上げさせる。
「丈……どうした? 寂しかったか」
洋の声が心に響く。
「寂しくなど……」
「俺はお前をひとりにはさせないよ」
逆に洋に抱き締められて、驚いた。
「洋は男らしくなったな」
「丈に見合う男になりたくてね」
「心強いよ。私の相棒でもある恋人、愛しい君……」
「いいね、それ」
抱きあって、一度だけくちづけ。
お互いにそうしたかったから。
「丈、さぁ一緒に帰ろう」
「参ったな……それは私の台詞だったのに」
「ふっ、そうだったな。月影寺は……もう俺の家でもあるから……」
「そうだな。あの日洋と日本のどこへ行こうか迷ったが、北鎌倉を選んで良かった」
あの日の決断は間違っていなかった。
あの日から、どんどん私の世界は広がっている。
自分から踏み込むと、世界の色は想像と違って暖かかった。
人嫌󠄃いだった私が、ここまで兄と打ち解けられたのは、洋のお陰だ。
「丈、俺を月影寺に招き入れてくれてありがとう。あそこにいると力が漲ってくるんだ。自分からやってみようという気持ちになれる……あのさ、安心できる家族がいるって、いいな」
いつになく饒舌な洋を助手席に乗せて走ると、私の疲れは吹き飛び、心がどんどん軽くなっていった。
自分を大切にしてくれる人の存在は、人生を変えていく。
より彩り豊かに、より深い色に――
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