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夜の名
夜の町はひどく静かだった。
町外れの小さな神社の境内から見る空はそれでも闇を操り、星を纏い、何度見ても綺麗だった。
男娼の盛んだったこの町は、隠れの華の蜜を吸える場所として一部の人には人気の町だった。
少し町から離れた明るい大通り。その奥に蜜の郷と呼ばれていた“夢菊” はあった。様々な理由で男娼となった男達であったが、どれも美しく色があった。
それも昨日までの話だが。
町が燃えたのだ。
“夢菊”諸共。
何処からかわからない火の気がたちまち町を包み、慌てて水をまいたり、火を消そうと奮闘するも意味などなかった。
元々男娼でしか収入がないこの小さな町に、役人は助けを求められても聞かなかった。
大役人がこの町を男娼の町としたというのに、それを全てなかったことにしたのだ。
だから燃やした。
たった一つの自分の首を守るために、多くの命を。
迫り来る炎から逃げるのに必死で何も持ってくることなどできなかった。
ただ自分の身を守るので精一杯だったのだ。
だから、他の“夢菊”の男娼たちがどうなったのかはわからない。せめてもの助けとして、逃げながら多くの人に“夢菊”の人たちを助けてやってほしいと…そう告げてきた。
それがどう作用したかは、この町外れの境内からではわからない。
薄着物1枚に素足。結わっていた髪はほどけ、火の粉の灰と煤と、消火には遅すぎる時期に降ってきた雨で身体は汚れていた。
いや、元々身体など綺麗ではないのだ。
何度この身体を男達に抱かれたか。
何度この身体を同じ男娼たちに抱かれ遊ばれ、殴られたか。
所詮、この身体は道具なのだ。
生まれた時からずっと、道具。
金になる道具なのだ。
親には身売りの品として役人に売られ、辿り着いた先は“夢菊”で働く男娼としての自分。
涙などとっくに枯れた。
この町が燃えてよかったと考えてしまう穢らしい自分しかいないのだ。
今いる町外れの神社は1人になりたい時に来る場所だった。商人の目を盗んで“夢菊”から逃げ出して。どうしても1人になりたくて、空を見上げて何も考えたくない時に来る場所。
「一人は寂しいものだな」
それでも人間は一人は寂しいから。
燃え上がり人気の無くなった…無残な町を見て寂しいと感じる。
喜びと寂しさ、それと虚しさ。
「なら、私と来るが良い」
声がした。
足音も気配も何も聞こえなかったのに。
背後から温かい何かに抱きしめられて、闇をも割くような凛とした声で、そう告られた。
誰、とか聞かない。
聞かなくてもわかる。
「結政 様」
何度か“夢菊”に来て、他の男を抱いては私に声をかけ、屋敷に来るかと告げ、帰っていく人。この辺りでは有名な武家の者で、様々な噂を聞く。
何故今ここにいるかなんて聞きはしない。
結政様の事だから、家来にでも私をはらせていたんだろう。どうせそんなところだ。
会う度に私を屋敷に連れていこうとしたのだから、この町が燃えることを知っていて、私を逃がすことを考えていたのかもしれない。
普通なら逃げるはずなどできなかったのだから。
“夢菊”の男娼達は常に足枷をされていて、柱に繋がれている。それはもちろん私も同じで、本来なら繋がれていて、逃げることなど不可能なのだ。
でも、今日は違った。
朝から店の商人はよそよそしく私に接し、絶対に足枷をつけるなと私に釘を刺し、ご奉仕も望まず私に何もさせなかった。
これは結政様のせいだろう。
「私と来るが良い、紫庵」
紫庵 。
名前のない私に結政様が付けてくれた名前だ。
“夢菊”では誰も名前など使わない。呼ぼうとしないのだ。所詮道具。性処理のために金を払って使う極上の道具という立ち位置の男娼たちに名前など不要だったから。
しかし、結政様は初めて私とあった時に名を聞いた。元々売り子だ。名前などない。自分の名前すら生まれた時からない私は正直に「名前はありません」と答えた。その日はそれっきりで、結政様は他の男を抱いて、屋敷に帰っていった。
2回目にあった時に結政様は名前をくれた。
私のことなど覚えてないと思い気にすらしてなかったのに、また同じように呼び止められて「紫庵」と言われた。
それがお前の名だと、笑みを浮かべて。
「私は行けません」
「何故だ」
「私は男娼の身です。生まれた時から道具として扱われ、名も無く、何度もこの身を男達にだかれてきました。穢れきった身体なのです」
きっと結政様はこれでは納得されない。
「それが、私と来れないことになんの関係があるのだ」
「結政様とは生きる世界が違うのです。貴方が光の射す世界にいるのならば、私は闇の影にいるのです。決して触れてはいけない、踏み込んでは行けない場所に結政様は住んでおられます」
「そんなこと私が決めることだ。関係ないだろう」
「気まぐれな優しさで私にそんなことを言わないで下さい。私は結政様とは行けません」
このような身体では、私が結政様に恋心を抱いていたとしてもその差し伸べられている手をとることは出来ない。
私を抱いてきた男とは違う、優しく人間に触れるように接してくれた貴方を好きになるのに時間などかからなかった。
名前を貰ったことがどれほど嬉しかったか貴方は知らないだろうけど、初めて生きてて良かったと思えた瞬間だった。
「貴方を自分の存在で穢したくないのです」
「馬鹿者。元々私は穢れている」
そんなはずはない。
「幾度と無くこの手で人を殺めてきた。泣き叫ぶ相手に冷徹な目で剣を抜き、血を浴びて、その真っ赤に染まった身体では何人も、何人も…殺めてきた」
「それは理由があったから故のことでしょう!結政様は穢れてなどございません!」
私を抱きしめる結政様の手は震えていた。
何をそんなに怖がっているのですか。
「この町が燃えることは知っていた。私ほどの権力があれば止めることだって出来た。だが、それをしなかったのだ。町の人の命を見捨てて、ただ1人を選んだ。自分の欲を選び他人の命を捨てたのだ…」
「結政様……」
抱きしめられていた手を解かれ、結政様は私の前に来るとどこか泣きそうな顔で正面から抱きしめなおした。穢らわしい私の身体に結政様が触れている。そうわかっているのなら、早く離れなければいけないのにそれをする勇気を私は持っていない。
二度とないかもしれない。
結政様に抱きしめられるなんて。
ずっと遠くから他の男を抱く姿を見ていた。
何度も何度も私に話しかけてくるのに、1回も私を抱こうとはせず、ただひたすら笑いかけてくれた。
そんな貴方が私の心の支えだった。
「紫庵、お前が欲しかったのだ。私はお前が欲しいが為に他の命を見捨て、今この場所にいる」
「何をおっしゃっているのですか…結政様」
そんなこと言わないで。
そんなこと言われたら期待してしまう。
期待することすら罪なことなのに、私は。
「紫庵、お前が好きなのだ。愛しているのだ」
結政様と言いたいのに声が出ない。
それは間違った感情だと言いたいのに、口から漏れるのは小さな嗚咽だけ。
枯れたはずの涙が溢れ、どんどん結政様の着物を濡らしていく。
離れなければいけない。
離れて二度と会わないようにしなければいけない。
でも
「どうしてもお前が欲しいのだ。紫庵が欲しい」
そんなこと言われたら我慢出来なくなる。
自分に嘘がつけなくなる。
今まで我慢して見なかった振りをした欲たちが、想いが溢れて止まらなくなる。
「紫庵、お前の気持ちが知りたい」
もう嘘などつけそうにもない。
この温もりが、優しさが、真っ直ぐな気持ちが。あまりにも不器用で愛おしく感じてしまうのだ。
「私も結政様のことを愛しております」
初めて聞いた愛の言葉はとても甘かった。
切なくて甘くて、穢れきった私の身体が澄んでいくような感覚に陥る。
それほどまでに私は結政様を愛していたのだ。自分で気づかないほど。
「紫庵、私の屋敷に来い」
「はい」
力強く抱きしめてくれた結政様に、そっと自分も手を回す。
初めて触れた。自分から結政様に触れた。
枯れた涙は止まらない。
きっと悲しい涙が枯れていただけなんだろう。嬉しい涙など流すことなどなかったから、今まで気づかなかっただけ。
涙がある。結政様に抱きしめられている。
温度を感じられる。もう、道具などではない。
私は紫庵になれる。
「結政様」
「なんだ」
「私はもう道具ではありませんか?」
「何を言っている。お前は最初から道具などではない。人間だ。……いや、違うな」
ほらまた、結政様の言葉で身体が澄んでいく。
「お前は最初から私の愛おしい紫庵だ」
夜の町はひどく静かだった。
町外れの小さな神社の境内から見る空はそれでも闇を操り、星を纏い、何度見ても綺麗だった。
そして、とても優しかった。
【夜の名】END
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