2 / 36

Heavenly Kiss side A

灯りを消してリビングの窓を開けると、月明かりが差し込む。 真夜中の空気は冷たく澄んでいて、わずかな眠気を覚ますのにちょうどよかった。 タワーマンションの最上階は見晴らしがいい。こうして風を受けながら下を覗くと、まるで空の上を漂っているみたいだ。 天に向かってそびえ立つ、バベルの塔。 僕がここにいたいと思う理由のひとつは、サキがいる天国に近いからだ。 僕は時間を持て余しながら、その時をじっと待つ。 きっと、もうすぐ帰って来る。 待つのは嫌いではない。けれど、いつもより遅いと、ひどく不安になる。 このまま永遠に帰ってこないかもしれない。そんな不吉な考えが、ふと頭をよぎる。 カチリとデッドボルトの回る音がした。 僕は安堵しながら玄関まで迎えに行く。 「ユウ、おかえり」 「ただいま、アスカ」 仕事を終えて帰って来たユウは、疲れた顔も見せずにそう言って僕に微笑みかける。 「なかなか帰らない客がいたんだ」 仕事だから、仕方がないのに。帰りが遅くなった理由を、きちんと僕に話してくれる。 「大変だったね」 他愛もない言葉を交わしながら、僕はユウと部屋へ向かう。 ユウがシャワーを浴びている間、僕はベッドに潜り込んでただひたすら待つ。 静かな寝室に一人でいると、さっきとは別の不安が頭をよぎりだす。 いつまでこうしていられるのだろう。 ユウに恋人ができたら、僕はここにはいられない。 そのときは出ていかなければいけないとわかっている反面、いざそうなれば自分が路頭に迷うことは違いなかった。 毎夜僕の隣で寝てくれる人が、いなくなってしまう。 悪夢から目覚めたときに一人でいるのが怖くてたまらない。 「アスカ」 いつの間にかシャワーを終えたユウが、寝室に入って来ていた。 ベッドに入り込んで僕をそっと抱き寄せるその身体は、火照っていて心地好い。 「また余計なことを考えてたな」 ユウは他人の心が読める。そして、いつも少し先のことが見えている。昔から、そうだった。 「ユウ、好きな人はいないの?」 思い切ってそう聞くと、大きな手で包み込むように僕の頭を撫でる。 きれいな鳶色の瞳が僕を映しだす。 「何も心配しなくていい」 「答えになってないよ」 ユウはいつも僕を子ども扱いする。十八も年の離れた僕は、ユウにとっては赤子も同然に思えるのかもしれない。 「アスカが好きだ」 ぽつりと漏れた言葉は、我が子を慈しむような響きを含んでいた。僕が訊いているのは、そんなことではないのに。 「僕もユウが好きだよ」 同じ言葉を返す。今の僕にとってはユウが全てで、それを表現する言い方が他に見つからない。 「ユウに好きな人ができるまでは、ここにいていい?」 「アスカに好きな奴ができるまで、いればいい」 恐る恐る尋ねる僕に、ユウはそんな言い方をする。 その瞳がサキと同じ色だから。 サキにそう言われた気がして、僕の胸がチクリと痛む。 僕に好きな人ができる。 そんな時は永遠に来ない。僕はずっとこの閉ざされた世界で、喘ぐように呼吸を繰り返すのだろう。 「早くお休み」 眠りにいざなう深い響きの声を聞くと、急激に眠気が襲ってくる。 微睡みと共に降りてくるのは、唇が触れるだけの、優しいキス。 「おやすみなさい……」 「おやすみ、アスカ」 天上の揺りかごに揺蕩いながら。 温かな腕の中で、僕は浅い眠りに落ちていく。 "Heavenly Kiss side A" end

ともだちにシェアしよう!