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第1話 熱中症の隣人

 俺が朝一で引っ越してきた新築マンションには、まだ誰も住人は居ないようだった。こちらから挨拶に行く手間が省けて、助かる。そう思い、俺は運び入れた真新しいベッドに寝そべり、ウトウトとしていた。  どれくらい眠ったのか。トラックのドアが閉められる、大きな音で目が覚めた。開きっ放しの窓から零れる西日は、もう鮮やかなオレンジ色に染まっていた。  威勢の良い若い男、二~三人の声が揃って上がる。先ほど俺が体感したばかりの光景が、ありありと目に浮かんだ。窓の外を覗くと、案の定引っ越し業者が、テキパキと荷物を運び入れてくるのが見えた。荷物の行きつく先は、102号、どうやら俺の隣の部屋だった。  まだ覚めやらぬ頭でぼんやりと眺めていると、作業服に混じってジーパンにTシャツの小柄な女が、昨今にしては珍しく懸命に荷運びを手伝っていた。  思わず目で追っていると、気取られたか、垣根越しに黒目がちの大きな瞳と目が合った。ブラウンがかったショートボブの小綺麗な女は、にこりと笑みを見せると、大きな段ボールを手にしたまま、軽く会釈する。どれくらいの付き合いになるのか、とにかく隣の住人だ。俺も慌てて会釈を返すと、ベッドから腰を上げた。  玄関先で、荷物を運んできたお隣さんと出くわす。小柄な割に力はあるのか、危なっかしくはなくしっかりと荷物を持っているが、この炎天下だ、汗の珠が幾筋もその白いTシャツから覗く喉を伝い、鎖骨の所で(わだかま)っていた。 「あ、初めまして。俺、102に越してきた佐伯京(さえききょう)です。よろしくお願いします」  ……男か! ふっくらした桜色の唇から発されたハスキーボイスに俺はやや驚いたが、同じように返した。 「ああ……海堂真一(かいどうしんいち)だ。よろしく」  習慣で握手を求めそうになり、京の両手が塞がっている事に気付く。汗だくになっている彼を見て、極自然に腕が伸びた。 「手伝ってやるよ」 「えっ、でももうすぐ終わりますし」 「良いからよ。挨拶がわりだ」  言って、京の手から大きな段ボールを軽々と引き受けると、開け放してある102号の扉の中へ入り、玄関内へ置く。恐縮する京を余所にあと二つ段ボールを運び込むと、引っ越し業者は彼にサインを貰い、嵐のように去って行った。 「ありがとうございました!」  心底嬉しそうに、京は微笑んで言った。 「お礼がしたいので、冷たいものでも飲んでいきませんか」  少し考えた後、この青年と仲良くなっておきたいという直感が働き、俺はその招待を受ける事にした。  だが引っ越したばかりなのを、青年は失念していたらしい。冷蔵庫は勿論冷えてなく、氷もない。段ボールだらけの部屋に上がってから、途方に暮れた青年の横顔を見て、俺は笑った。 「俺んちに来いよ。アイスティーが冷えてる」 「……すみません、頂きます……」  俺の部屋はすでに荷解きが終わっている為、エアコンもきいて快適だった。アイスティーを出すと、京はゴクゴクと喉を鳴らして一気に干した。よほど喉が乾いていたのだろう。  四~五歳下か、新生活同士、少し話しただけですぐに気心は知れた。だが楽しい会話の最中(さなか)、二杯目のアイスティーに口をつけようとした京は、フローリングの床にグラスを落とし、派手に中身と破片をぶちまけた。 「あっ……! ごめん!」  慌てて破片を拾おうと伸ばす指を止める前に、小さな悲鳴が上がった。 「馬鹿、素手で拾う奴があるか」  俺は血を滲ませた京の人差し指を、咄嗟にパクリと口に含んだ。 「し、真一さん……」  やや戸惑ったような声音がしたが、俺はそこを唾液で充分に消毒するまで離さなかった。 「京、顔色悪りぃぞ、大丈夫か?」 「はい、ちょっと……手が痺れるような感じが……」 「熱もあるな。熱中症じゃないのか? ベッドに横になれ。水分摂らなかっただろう」 「すみません……引っ越しに……一生懸命で……」  京はヨロヨロと立ち上がると、素直にベッドに身体を横たえた。それだけ具合が良くないのだろう。  俺は、エアコンの温度を下げ、ビニール袋に氷を詰めたものを二つ作ってベッドへと持っていった。 「冷たいけど、我慢しろよ」 「ひゃっ……」  脇の下にそれを挟むと、京の声が掠れ上がった。俺はその声に刺激され、意思とは無関係に心臓が早く打ち始めるのに、若干慌てる。だが、初めは女と見違えた綺麗な顔立ちだ、無理もないかもしれない。  次は冷たい水を彼に与えるつもりだったが、グッタリとした京は、起き上がる事は出来ないだろう。治療の為。そう頭の中で唱えながら、 「京。水飲ませてやるから、目ぇ閉じてろ」  俺はグラスに入った氷水を、自らの口内にゆっくりと含みながら、唇の端だけで小さく笑った。

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