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第1話
常々思っていることなんだけれど、
俺の恋人はたぶん、王様だ。
それか女帝。
女帝といえばエカテリーナ2世を連想するけれど、彼女のように恋多き人ではない。
……それ以前に、俺の恋人は俺と同じ男性だから、「女帝」なんて言ったら怒らせてしまう。
「王様」といっても、彼が実際に王族の出身であるとか、俺たちの間に格差があるとかではない。毎朝、6時に起きて電車通勤している彼は、どこにでもいる普通の26歳のサラリーマン。
だけれど、彼の話し方や一つ一つのしぐさ、身のこなしには、生まれ持った品の良さが感じられて、それがいちいち嫌味じゃない。なんていうか、高貴な感じのする人。
ちょっとぐらい気位が高くてもまぁ目をつぶってやるかといいたいところだけど、実際の彼にそんなそぶりはまったくない。そういうところにも強く惹かれている。
黒目がちで色白で、唇の脇の小さなほくろがやけに色っぽい。出会ってから今日まで約5年間、髪型はずっと、襟足にかかるぐらいのショートヘア。黒髪がよく似合う、男前というよりは美少年タイプ。中身も外見も、完璧に俺の好み。まさに理想の恋人。俺だけの、愛おしい麗しの王様。
……その王様が、どうも風邪にやられたっぽい。
風邪をひいた時とか、体調を悪くしてちょっと弱ってる時の無防備な感じって、本人の意図とは関係なく、周囲の眼には、いつもより色っぽく映ってしまうらしい。……それは、女性の場合に限った話らしいけど。って話を、前に誰かに聞いたことがあるんだけど、なんだか、俺の恋人にも当てはまるみたい。
俺の恋人、れっきとした成人男性なんですけど。
なんですけど、本当にもう俺、さっきから息を呑むような彼の色気にアテられっぱなしで、彼が眠ってるベッドのそばを離れられないんだな。困ったことに。
あぁ、今もまた、いつもよりちょっと鼻にかかった声で、というか、声にならない声で、
「ん……、ぁっ……、」
とか、
「ふぅ……、ん……、ん、」
と漏らす吐息が妙になまめかしくて、彼の寝顔に吸い寄せられるように、見入っている。
それだけすっごい高熱ってことなんだけど。
実際にはめちゃくちゃ心配してるんだけど。
……それと同じぐらい、俺の身体の反応も心配……なんです。一応。具合の悪い恋人に欲情するなんて……、まじで自己嫌悪。
*******
休みの日でも7時には起きる彼が、今朝はなかなか起きてこないから、どうしたのかと思ってベッドを覗いてみたら、色白美人の彼の頬が、心なしかいつもよりほんのり赤い。
昨夜は、同じフロアの人の送別会とやらで珍しく呑んで帰ってきて、ちょっと時間は遅かったけど、いつも通り一緒に風呂に入ってベッドでイチャイチャしながら寝て。彼の舌も、胸も背中も指先も、いつも通り平熱のアツさだったはず。
なのに、今もまだ、額に手を当てるとじんわり熱い。
さっきから湿った吐息を漏らしている柔らかな唇の間に、「ごめんね」と言いながら体温計をはさんでみたら、さっきとほぼ変わらず、38度2分。あぁ、疲れが溜まってたのかな……。気づかなくてごめんね。そう詫びる気持ちがありながらも、できるならこの体温計になって彼の唇の間にするりんと入り込んでしまいたいとも思ってしまうエロい俺……。
予約した診察の時間まで、あとまだ30分以上もある。早く着いても、病人ばかりの待合室で彼を待たせることになる。それより、せめて手でも握って、ギリギリまでここにいたほうがいい。額も頬も、首筋も、……胸も、触れるところすべてが熱い。触れた手のひらを通して、じんわりと熱が伝わってくる。
あぁ、それにしても。
風邪なのか、インフルエンザなのか、もっと違う病気なのか、彼の体調が気にかかるのと同じぐらい、具合が悪い時の彼がこんなにも艶っぽいだなんて予想だにしなかった事態にも、俺の心は落ち着かないでいる。あぁ、もしも許されるなら、今すぐ彼に覆いかぶさって、いつものように唇を合わせ、舌を絡ませ、身に着けているものを脱がせて肌を重ねたい。それで、具合の悪いのが俺にうつってしまえばいい。たぶん、俺のほうが体力ありそうだから。
…………そんな、やましいことを考えてしまう恋人でごめん。
目を閉じ、ゆっくりと肩を上下させている彼の手を取り、傷ひとつない彼の手の甲に懺悔の気持ちを込めてそっと口づけた。
*******
「さっきまでに比べたらずいぶんラクだよ。起きていられるぐらいだし」
そう言って彼はソファにもたれかかり、さっき、クリニックでもらってきた薬の説明書を眺めている。確かに、起きた時よりは、うんとラクになったように見える。食事、といってもおかゆだけどそれも喉を通ったようだ。台所を片付けた俺は、彼の隣に座る。
「よかった。もう熱もひいてる」
額に手を当ててみると、ほぼ平熱といっていいぐらい落ち着いている。
「さっきはすごく心配そうな顔してたね。ありがと……。おかゆもおいしかったよ」
そう言って彼は、顔を上に向け、俺を俯かせるように頭をちょっと下げさせると、マスクをしたまま額にキスをしてくれた。俺のほうがガタイがデカいからね。
手を握ってみると、こちらもほぼいつも通りの温かさに戻りつつある。よかった。
…………よかったついでに……、というわけじゃないんだけど……、
「ね……、おでこじゃなくて、唇にキスしていい?マスクを外して……」
俺がそう聞くと、
「だめ。熱が下がっても、風邪は治ってないんだから。うつっちゃうよ」
「うつってもいいから」
「だぁめだってば。ね……?」
まるで子供に言い聞かせるように、彼は言う。さっきテーブルに置いた説明書を再び手に取って、細かい字を目で追いながら。
「うつんないから、大丈夫だって」
「だめ。……」
「いやだ」
「……明日まで、待って」
「ねぇ……、さっきからそうやって鼻にかかった声で言われるとさ、煽られてるみたいで余計に欲しくなっちゃうんだけど……」
そう言うと、彼は説明書をテーブルに置き、頬を膨らませて今度は声を出さず首を横に振って見せる。
ふふ、かわいいなぁ……。大人の男性に向かっていう言葉じゃないし、そんなことを言ったら絶対に怒らせちゃうから、口には出さないけど。けど、あなたのそのしぐさがかわいくて、愛おしくて、もう、たまらないよ……。
「じゃあ……キスしなくていいから、抱かせて……」
彼は一瞬、びっくりしたように目を見開いた。無理もない。
けどまぁひるむこともなく俺はと言えば、彼のほうへ体の向きを変え、色白の彼の首筋に唇をつける。そして、うなじから鎖骨のあたりまでゆっくりと、線を引くように唇を這わせていく。彼の肌の匂いが、鼻の奥を甘く刺激してくる。マスクの隙間から「ぁ……」と小さく漏れる声に、発熱の熱さと鼻声のフィルターがかかって、ゾクッとするほど色っぽい。
「すっごくいい声……、ねぇ……、だめ?」
「だっ……、め……」
「……ほら、君だって欲しくなってるでしょ……。いつもより感じてる?」
「んっ……、」
「風邪をひいた時にお風呂に入るのを控えるのって、日本の人だけなんだって……。アメリカとかヨーロッパではね、日本とは家の構造が違って部屋も暖かいし、お風呂であったまったほうが熱も早く下がるっていわれてるんだって……」
「…………っ、……」
「暑いかもしれないけど、寝室の暖房つけようか?裸になって、汗をたくさん出したほうが早く治ると思うよ……、」
我ながら、欲にとらわれているなとは思う。「欲望にゃ素直に溺れるぜ」と歌ってる曲があったけれど、確かにさっきからあの曲のそのフレーズばかりが頭の中を旋回している。
そしてもう一度、今度は鎖骨のあたりをスタート地点に、首筋を通ってうなじへと、滑らかに続く稜線を唇が登っていく。時折、舌で太い線を描きながら。
「……あっ……、ん……」
「……いい、声。……だいすき」
そう言いながら、今度は俺が彼の額にチュッと唇をつけた。すると……、すると!
「じゃあ……、いつもより熱くしてくれる?」
観念したように、マスクを外しながら、彼が言った。さっきまでの高熱のせいなのか、よく見ると目尻の潤み方が尋常ではない上に、とろんとした瞳からは、いまにも甘い滴が零れ落ちてしまいそう。
あぁ――――……。
こうやって、言葉遊びのようなやりとりをしていくうちに、この人が俺の手に堕ちる。その瞬間のカタルシスを何と表現したらいいんだろう。ほんのささいなやりとりを交わすことだけで、いいようのない充足をこの人は俺に味あわせてくれる。
王様か、それとも女帝というべきか。いやいや、だから女帝はないわ。
誇り高く気品も備えたこの人が、そこいらの道端に咲く名前もないような草花でしかない俺の手に、その気高い手をそっと乗せる。ぐいっと抱き上げると、いつも両腕を俺の首に回し、花を散らしたような微笑みを投げかけてくれる。
壊さないように、傷つけないように、音を立てることなくベッドにこの人を下ろし、そのまま覆いかぶさることのできる幸せ。
少なくとも、俺の世界に君臨する王様。であるこの人が、毎夜、俺の身体の下で時にかよわく、時には大胆に、甘く誘うような声で啼き、叫ぶ。
俺のちっぽけな、ちょっとした征服欲を満たしてくれるこの人を、俺のすべてでこの上ないほどの快楽に溺れさせたい。俺は、俺の王様であるこの人に自分の一生を捧げ、付き従うと心に決めている。
*******
「あっ……、あ……っ…っ、ん……、あ、ふっ……、はァ……」
彼が適度にたくましい喉を反らせ、喘ぐ。肌が熱いのは風邪の熱のせいなのか。その熱さが、いつも以上に劣情を催させる。快感がそうさせるのか、それとも息苦しさのせいなのか、彼の唇を通って漏れ出てくる喘ぎが止まらない。
あぁ……、もう、たっまんないよぉ……。すっごく、いい。いつもより、うんと……。
本当は無理させちゃいけないってわかってるけど、さっきよりもずっと、もっともっともっと欲しくなってしまっている……。
「……ごめん。カラダ、さっきよりつらそう…………」
頬も唇も見事なぐらいにバラ色に染まった顔を覗き込むようにしてそう聞くと、閉じていたまぶたがゆっくりと半分ほど開き、
「……あっ、……ん、ん、だい、じょうぶ。だから、つづけて…」
そう言って彼は、俺の背中に両腕を回して自分のほうへ体を引き寄せ、唇を重ねてくれた。彼の舌はいつもよりうんと熱くて、そのとろけるような感触に俺はうちのめされ、夢中でしゃぶりつくように舌を絡ませた。俺の中で何かがパチンとはじけ飛んだ。もう止まらない。止まらなくても、いいんだ。熱のせいなのか、いつも以上に湿り気を帯びた彼の甘美な声が2人のいる寝室を熱くしっとりと満たしていく。もっと濡らして、その声で。もっと感じさせて。俺を。
*******
次の日、彼の風邪は快方に向かい、俺はと言えば、微熱で頭がぼーっとし始めた。
案の定、というか、自業自得。けど……、いろんな付加価値のおかげもあってか、昨日のセックスは最高に気持ちよかった。この上なく幸せだった。
あーあ。さっさと治すべ。俺が具合を悪くしてふぅふぅ言いながら寝込んだところで、色っぽさなんてカケラもありゃしない。それでも彼は、ベッドの脇に座って俺の手を取り、フフッと笑いながらこう言った。
「一緒にお風呂に入る?それとも、上に乗ってあっためてあげようか?」
あぁ。彼こそが、俺の絶対にして唯一の麗しの王様。
俺の生涯を貴方に捧げることを、ここに改めて誓います。
貴方がいれば、俺は一生幸せです。
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