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Part1 俺のピアノに住んでる蝶の羽の生えた変な生き物について

Part1 俺のピアノに住んでる蝶の羽の生えた変な生き物について なんだか寒いな。もっと着て来ればよかった。俺はバーのカウンターに身体を近付けて、ちょっとでも温まろうとする。まだ5月だもんな。季節なんてどうでもいいから、あんまり考えてなかった。このまま飲んでると、きっと寒さも感じなくなる。俺の脳の芯の所に、まだどっか酔いきれない部分があって、それが俺をイラつかせる。じっと固まって、まばたきもせずにグラスを握っていると、隣の席に女が座る。俺は女の方じゃなくて、バーテンダーの方を見る。彼は理解のある微笑みを返してくれる。女のオードトワレが、また俺をイラつかせる。外国では、バーで隣に座る女は娼婦だ。ここ日本だし、おまけにここゲイバーだし。なんの香り?なんか気持ちの悪い香り。セクシーにしようとして、スパイスを入れ過ぎたみたいな、そんな香り。安っぽい感じはないけど。女をチラって見てみた。見てくれは悪くない。ファッションセンスも悪くない。ただ間違った場所にいるだけ。さっきのバーテンダーの名前は涼で、俺の高校の同級生で、剣というパートナーと一緒にこのバーを経営している。あんまり開放的にお洒落に造り過ぎて、所謂観光客が大勢入って来る。それに有名な音大が近いから、余計女が入って来る。可愛い男の子達が手をつないだり、キスしたりしてるのを嬉しがって見ている。まあ、涼と剣の商売のためだと思えば我慢できる。剣が店の裏から出て来て、俺に耳打ちする。 「あそこのプールテーブルの向こう側に、絡まれてる子がいるんだけど。」 俺はそっちの方を見たけど、人が多過ぎて分からない。 「俺にどうしろっての?」 「助けてやってくれない?」 「なんで俺?」 俺みたいにケンカに縁のないヤツも世の中少ないと思うけど。 「俺、実は執行猶予食らってて。」 「マジで?」 「ケンカして。お前が言ってもダメだったら警察呼ぶから。」 「どんな子?」 「可愛い子。外人の子。」 俺は酔ってたのと、女の香水から逃れたいのと、剣の頼みなのと、可愛い外人という色んなどうでもいい理由が混ざり合って、プールテーブルの方へ歩いて行った。 可愛い外人の子か。可愛いにも程があるな。モデル顔でモデル体型で、カッコも派手だからしょうもない。カラフルなパラシュートジャケットに細身のジーンズ。大きなバックパックを背負っている。相手は2人で、硬派なゲイ、って感じ。今時バカみたいに典型的な革ジャンとチェーン。コイツ等そこまで頭いいかどうか知らないけど、外国人がトラブルに巻き込まれるとヤバいの知ってて、嫌がらせに手を出してんのかな?俺、どうすればいいの?俺の脳のわずかに残った酒にイカレてない部分で考える。その結果、考えてもしょうがないって分かって、俺はその可愛いのに近付いて、 「Oh, there you are! I've been looking for you. Excuse us gentlemen.(なんだそこにいたんだ!ずっと捜してたよ。すいません、そちらの方々。)」 俺は彼の背中を押して、ふたりの男の間をすり抜けて、グラスに残った酒のことを考えて、カウンターに戻ろうかな、って一瞬思ったけど、外に出た方がいいだろうと思って、ふたりで店を出た。剣が店の中から笑顔で手を振っている。 俺達はしばらくなにも言わないで歩いて、俺は時々後ろを振り返って、ヤツ等が追って来ないか確かめる。彼の足はどんどん速くなって、俺は小走りになる。こんな大きなバックパック持ってるところを見ると、観光客だって思うのが自然だろうな。ちょっと風が出て来て、寒いなって立ち止まる。俺んちそんな遠くないけど、金曜の夜ひとりでいるのなんだか嫌だし、でもさっきのバーには戻れないし、どっか他で飲む?俺ってつい飲み過ぎるから、知ってるとこで飲むのには訳があるんだよな。あんまり知らないとこで問題起こすとヤバいし。ケンカはしないけど、変な男について行くとか、ついて来られるとか、トイレに連れ込まれるとか、それ全部やったことあるな。音大に近いからヤバい。顔が知られてるから。あんまり色んなことを考えていると、自然に足が止まる。さっきの背の高い若者がどんどん遠くなる。考えてみれば、俺だってそれなりの危険をおかして助けてやったのに、Thank you のひとつもないのはなぜ?あんまり怖かったから?早く逃げたかったから?日本は安全だって聞いたのに、そうじゃなくてムカついたから?分からない。そんなことより、さっさとどっかで酒を仕入れて、家に帰った方がいいな。寒いし。なにをどこで買う?ほんとは大して飲みたくない。ただあそこのカウンターに座っていたかっただけ。俺って寂しいのかな?彼氏いなくて長いし。いればいたでかえって面倒くさくなるだけだけど。こないだ学生に言い寄られたな。言い方が面白かったけど、ヤバいから断った。なんて言われたんだっけ?忘れた。35才過ぎると落ち付きたくなるのかな?いくら寂しくても20才じゃ若過ぎるな。 道端でここまで考えたら、あっちの方に明るい電気がついている。そっちへ惹かれるように行ってみるとやっぱりコンビニで、酒の売り場を色々見るけど、なにを買えばいいのかサッパリ見当がつかない。もしかしたら俺は思ったより酔ってるのかも知れない。消去法でいくことにした。飲みたくない物から消していく。バーで飲むのは大抵ウオッカだけど、それ家でやりたくないな。ワインやビールより、もっと強い酒がいい。腕組みをしながら考えていると、後ろから、 「What are you doing?(なにしてんの?)」 って、あきれた声で。 「I don't know what I want.(どれがいいか分からない。)」 若者はテキーラのビンを手に取って、レジのカウンターに置く。しかし払うのは俺らしい。でもテキーラというのはいいアイディアのような気はした。俺は店を出て、自分の家に向かう。近くはないが遠くもない距離。10分か、もうちょっと。酔ってるから自分の歩いてるペースがよく分からない。テキーラのボトルを開けて、ひと口飲む。いい感じのアルコール度。横から長い手が伸びて、俺のテキーラを横取りする。でもふた口くらいで返してくれる。若者が、 「Where are you going?(どこに行くの?)」 俺はそっくりそのまま聞き返す。 「Where are you going?(どこに行くの?)」 返事はなくて、そのまま無言で歩き続ける。テキーラのボトルは俺達の間を行ったり来たりする。 俺のマンションに着く。彼はそのまま一緒にエレベーターに乗って、あげくに俺の部屋に入って来る。 「This is not your hotel.(ここは君のホテルじゃないよ。)」 「I know.(知ってる。)」 「Then, what are you doing here?(じゃあ、ここでなにしてんの?)」 「I just wanted to say thank you.(ありがとう、って言いたかったから。)」 「You're welcome.(どういたしまして。)」 彼はリビングにバックパックを置いて、他の部屋の探検を始める。冷蔵庫まで開けている。俺も外国暮らしは長いけど、ここまで遠慮のないのも珍しいな、って思ってると、突然叫び声が。 「Steinway!(スタインウェイ!)」 俺のグランドピアノ。見ていると彼はなぜか鍵盤の方の蓋を開けずに、メカの方の大きい蓋を開けている。変な外人を家にあげて、俺はなにしてる?テキーラって俺、あんまり飲まないな。どうやって飲むの?あんまりストレートで飲んでると、喉が痛くなる。とりあえずクラブソーダで割る。ライムとかレモンとか、そういう気のきいた物はない。外の寒さでさめた酔いが、少しずつ戻ってくる。人ゴミの中で飲むのもいいけど、ひとりで飲んでると、アルコールの脳に与える作用が感じられて、それもいい。その時、どういうわけか、俺に言い寄ってきた学生に言われたことを思い出した。 「先生また酒ばっか飲んで、ちゃんと食べてないって顔してますよ。よかったら僕が先生の面倒見ましょうか?」 音楽室で、ふたりっきりで、声がなんか響く感じで、面倒を見るって、どういうこと?子供にするように料理をしたり、洗濯をしたり、泣いていたら慰め、悪戯をしたら怒り。そこまで聞かなかった。っていうか、俺はソイツになにも言わなかった。俺は言われたことにあきれて、じっと顔を見たけど、本人は極真面目に見えた。あれからなにも言って来ないけど、それはどういう意味なんだろうか?俺には根本的に、好奇心というものが欠けている。さっきから俺のスタインウェイの中身を探っている男がいるけど、だからといってどうということはない。彼の名前がなんで、どっから来て、どこへ行くのか?そんなことより、俺はアルコールが俺の脳を麻痺させていく過程を感じるので忙しい。酒を飲むからウツ病がよくならない、って医者は言うけど、別によくなりたいわけじゃないし。暗い曲を弾きたいな。暗い曲にも色々あるけど、最初から最後まで暗いのがいいな。しかしそういう曲はあんまりない。また明日考えよう。 あれからテキーラを空けて、冷蔵庫にあったビールをどのくらいか知らないけど飲んで、あとよく分からないけど色々飲んで、起きたらちゃんと俺は自分のベッドにいた。大したものだと思う。全く記憶がない。誰かが俺の隣で寝ている。ドキってしたけど、夕べの外人だった。インターホンが鳴っている。土曜日になに?画面に映るのは俺の生徒。 「先生、今日レッスン日ですよ。」 「土曜だろ?」 「来週修学旅行だから、って約束したでしょ?」 覚えてるような、覚えてないような。 元気いっぱいの小学生が部屋に入って来る。俺は子供にピアノを教えることに興味があって、大学で教える片手間に、小中学生に教えてる。それについて大学がとやかく言う気配はない。ピアノの部屋に入ると、まだ蓋が開いている。それによって、俺はさっきの外人のことを考える。ピアノの中身ってそんなに興味深い物なのだろうか?リビングのバックパックは夕べのまま。小学生が、 「先生また飲み過ぎでしょう?二日酔いだったら、とりあえず僕の弾くの聞いててくれるだけでいいですから。」 俺はキッチンに行って、ペプシの缶を開けた。 「先生、ちゃんと聞いてるんですか?」 「今んとこ、なんでいつも間違えるんだろう?同じとこ。」 「ここねー。」 「俺が先週、丸つけといただろ?練習したの?」 「した、した。でもね、難しい。」 「もう1回やってみて。」 ペプシは俺の二日酔いの特効薬。 「普通、間違えるようなとこじゃないのにな。」 ドアが開いて、外人が顔を出す。 「あのね、そこんとこ、君がリズム間違えてるからだよ。だからそこだけ指が滑っちゃうの。」 小学生が、 「リズム?」 「そこ最初の音にアクセントがあるから、そしたらもっとしっかり指に力入れられるでしょう?」 「え、そうなんだ。」 俺の二日酔いは実はわりかし重くて、俺はその外人が俺の代わりに小学生を教えているのを、ずっと黙ってなんとなく聞いていた。小学生は、 「今日これからまだ僕の学校の人達来ますよ。」 「え、マジ?あと何人来んの?」 「あと3人。」 「今ってさ、小学校でも修学旅行ってあんの?」 「近場だけどね。じゃあ先生ありがとう。お兄さんもありがとう。」 そのあと俺はベッドに戻って、何回かインターホンの鳴るのが聞えて、ピアノの音も聞こえて、すっかり夕方になって、若者がベッドルームに入って来て、 「もう起きられるでしょ?なんか食べる?」 「起きられるけど、食べたくない。」 「ちょっと作ったから食べて。」 オートミール?そんなのどこにしまってあったんだろう?若者がシロップのビンを持って、 「これかける?」 「うん。ちょっと。」 きっとあのバックパックに入ってたんだな。食べたら頭が少し動き出した。 「貴方、相当変わってるね。」 「そうかな?」 「俺になんか聞きたいこととかないの?」 「なにを?」 「名前とか、どっから来たとか。」 「そうだな。」 「貴方、なに?ピアニスト?」 「俺はピアノを教えてる。」 「なんでもいいから俺に聞いて。あんまり興味を持たれないのも悲しいじゃない。」 「じゃあさ、あのさ、ピアノの中身って、なにがそんなに面白いの?」 「それが最初の質問なの?ま、いっか。ピアノの中身は、とても美しい。」 「ふーん。」 「他には?なにか聞きたいことないの?」 「そうだな。あれっ、それよりなんで君、日本語喋ってんの?」 彼は笑って、 「今頃気付いたの?」 「じゃあ、なんで夕べ英語喋ってたの?」 「それは貴方が英語で話しかけるから。」 そうだったかな?って俺は思い出そうとする。どうでもいいや。俺がアル中にならないのも、酒を飲んだ次の日、ウツになって、普通はそれがイヤだからまた酒を飲む。俺の場合はウツになってそれをじっくり味わう。なにも考えずに。そこにある種、音楽の本質とか、芸術の本質とかが隠れている。俺の場合だけど。ウツで脳細胞だか脳内物質だかの活動が下がると、それまでなかった物の存在を感じる。感覚が麻痺して、同時に感覚が鋭くなる。まあ、大抵はなにも考えてない。金曜の夜に飲み始めて、日曜に止める。今日みたいに生徒が来ることも普段はない。そういえば、あのあと来た3人はどうなったんだろう?俺はピアノの部屋に向かう。ウツの時にはベートーベンの長いヤツを弾く。ゆっくりと平坦に。ピアノの先生に聴かれたら破門されるほど、ゆっくり平坦に。そうすると弾きながら同時に違うことを考えられる。時々間違える。それはしょうがない。なにを考える?別に考えたいこともないな。5月だし、なんでか知らないけど夕べやたら寒かったし、少し服とか買った方がいいのかな?どんな服?俺って自分が何者か知らないから、買う服が分からない。大学でピアノを教えてます、っていうカッコ?それってどういうカッコ?なんで寒かったの?俺なに着てたの夕べ?シャツ。ストライプのスタンドカラー。音楽家はスタンドカラー好き。あれはとある指揮者が始めた。宗教家っぽい雰囲気にもなれる。あの時の俺、どんな服着てたのかな?生徒に面倒見てあげるって言われた時。全然覚えてない。別に男を探そうと思ってるわけじゃないけど。あんまり老けて見える服はイヤだな。俺まだ30代半ばだから。ここでしょうもない思考がストップして、同時にピアノを弾く手もストップした。 「なんで曲の真ん中でストップすんの?」 「なんで聴いてんの?」 「洗濯機貸してもらおうと思って。」 「いいよ。」 そして俺は止まった所からじゃなくて、次の楽章から弾き始めた。ゆっくりと平坦に。コンピューターが弾いてるみたいに。もし俺が作曲家だったら、コンピューターがだらだら弾いてるみたいな曲作るな。物事を考えるのに丁度いい。どうでもいいことを考えながら、手を動かしながら、楽譜を目で追いながら。これは小さい頃からの訓練がないとできない。テキーラ、悪くなかったよな。先週バーボン飲んだら、二日酔いがもっとひどかった。なんでバーボンなんて飲んだんだっけ?全然覚えてない。誰かの家に行った。金曜日。あのフェラの上手いピアニスト。俺のことを尊敬してるって言ってたな。俺のなにを尊敬してるんだろう?でもそれ聞いたな。なんて言われたっけ?彼が一生懸命弾いてる時に、俺が全然聴いてなくて、俺に聴いてもらえるように弾く努力をして、無事に大学を卒業できました。とか、言ってたな。でもあれだけフェラ上手いと、さすがに集中できるな。可愛いしな。名前覚えてない。今、何時頃なんだろう?音大生専用マンションだからいいけど。このピアノまだローンが残ってるんだよな。大学の給料は知れてるし、でも子供からあんまり金取りたくないしな。子供っていいな。子供は変われる。大人よりずっと簡単に。ここでまた手が止まる。 「ベートーベンをそうやって弾くのって、なにかのトレーニングなの?」 「まあ。」 「乾燥機の中の服、どうしたらいいの?」 「ベッドの上にでも投げといて。」 「そんなことしたら俺達、今晩どこで寝るの?」 そうか、そこまで考えてなかった。俺はまた次の楽章から弾き始める。スラーもフェルマータもスタッカートもフォルティシモも全部無視して。ベートーベンは、俺達が楽譜通りに弾くもんだと、本気で期待していたのだろうか?俺、今なんの曲弾いてるのか分からなくなってきた。暗いヤツ。みんな暗いか。「月光」じゃなくて「悲愴」じゃなくて、なんだっけ?今のは暗譜してるから。だから余計に分からない。まあいいやって思って、次に弾く楽譜を探す。「熱情」の第2楽章。そこへ若者が俺の服をキチンとたたんで持って来る。 「ありがとう。」 「どういたしまして。」 彼はそれをピアノの側にある椅子の上に置いていく。 「君のホテルはどこなの?」 「初めて俺に興味を示してくれた!でも俺、観光客じゃないですよ。」 「じゃあ、あのバックパックは?」 「彼氏とケンカして。」 やっと楽譜が見付かった。これはそこまで暗くないはず。 「ちょっと待って下さい。それ弾く前に。」 「なに?」 「俺の名前くらい聞いてくれたっていいじゃないですか?」 「聞いてもすぐ忘れちゃうし。」 「聞いてください。」 「分かった。なに?名前は?」 「ユリ。Yuri。」 「あ、それ俺がアメリカに留学してた時のルームメイト。」 「アメリカに留学してたの?」 「みんながヨーロッパに行きたがるから。」 「あまのじゃく。」 「そいつロシア人だった。」 「近い。俺の父親、カナダ国籍のウクライナ人。母が日本人。俺日本で生まれたから日本人だよ。」 そこで俺が楽譜を開いてピアノの上に置く。 「ちょっとその前に。」 「なに?」 「ここ広いし、俺行くとこないから、しばらく置いてもらっていいですか?」 「いいよ。」 「こんな簡単だとは思わなかった。色々考えたのに。俺料理好きだし、子供にだったらピアノ教えられるし。少しだったら家賃払えるし。」 俺はこの「熱情」をどうすればベートーベンの怒りを買うように弾けるだろうか?ということを考えていた。 「ちょっとその前に。俺、明日仕事だから、キーとか暗証番号とかもらえますか?」 俺はまたピアノに戻る。 「普通、このタイミングで仕事なにしてんの?とか聞きませんか?」 「別に。」 「俺はね、ファッションモデル。男ではまあ売れてる方。」 「へえ。」 「あ、それ弾くんですか?俺ね、その2楽章好きで練習しましたよ。2楽章しか弾けないんですけど。いいですか、弾いて?」 このピアノって、こんな音も出るんだな。なんて爽やかで軽い音。ペダルの使い方が違うのかな?俺は彼の足を見る。別に特別なことはしていない。俺はピアノの中をのぞく。中になにかいるに違いない。でもなにが?蝶々が羽ばたいてる?小さな小鳥が隠れてる?家に来る子供達のピアノより純真な音。ベートーベンの意気込みが、少し途切れた第2楽章の、幸せなわずかな瞬間の、だけどその底には静かな怒りが潜んでる。俺の目から涙があふれる。彼は弾き終わって、 「どうしたんですか?俺、なにかしました?」 「うん。」 「なに?」 「このピアノ、こんな音が出るって知らなかった。誰?君の先生。」 「ちょっとそれ言えないんですよ。」 「なんで?相当優秀な先生に違いない。」 「俺、ソイツのピアノ、ハンマーでぶち壊して。」 「ええ!」 「愛憎のもつれ。」 「あの、このピアノまだローン残ってるから。ねえ、もっとなにか弾いて。ショパンとか。」 「俺、そんな難しいの弾けませんよ。ピアノ途中で止めたから。」 「なにならできるの?」 「まあ、モーツアルトのソナタくらいなら。でも俺、明日早いから、また今度。」 「俺のピアノの中に蝶々が羽ばたいてる。」 「えっ?」 「音が聞えた。」 「まさか。」 「小さな小鳥も住んでる。囀りを聞いた。君が弾くとそういう風に聴こえる。」 「進士先生、ゴメンね。俺、朝早いから。」 「うん。俺の名前どうして知ってんの?」 「子供達に聞いた。」 「そう。ありがとう。子供達の面倒見てくれて。僕達本当に今晩一緒に寝るの?」 「ベッドひとつしかないでしょう?」 「そうだね。じゃあ俺も、もうすぐ寝るから。」 でも俺は寝るどころじゃなくて、俺はスタインウェイの隅々まで捜した。ハンマーや弦のひとつひとつの、その下まで。どんな物が隠れているのか?音を出してみた。俺が鍵盤を押しても、あんな音は出て来ない。今度は部屋の隅々を探した。どこかに蝶の鱗粉が落ちてないか、小鳥の羽が舞ってないか。俺は今までなにを教わってきたんだろう?なにを教えてきたんだろう?アマゾンの熱帯雨林には、信じられないほど大きな蝶が住んでいて、それが羽ばたくと、まるで鳥の羽ばたきのような音がするという。ユリのピアノにはそういう壮大な希望がある。曲のせい?でもあの曲、俺は散々聴いてきた。BarenboimもRichterも Rubinsteinも、みんなあの曲に魅せられた。でも誰もあんな音は出してなかった。俺はベートーベンを弾き終えて、モーツアルトのソナタを弾けるだけ弾いていたら、朝になっていた。誰かがシャワーを浴びて、家から出て行くのが聞えた。俺は相変わらず考えていた。音。音の記憶。音と耳と心。それから、なんだかさえない俺の人生。酒とそれに続くウツ。酒に酔った脳だけが純粋に物事をとらえるものだと思っていた。 冷蔵庫を開けたら、ビールが入っていた。キャビネットを開けたら、ブランデーと、何種類かのリキュールと、赤ワインと、あとは飲んでみたけどあんまり好きじゃなかったから、そのままそこにあるみたいな酒がいくつか入っていた。ビールの缶を開けて、見かけないダークな外国のビールで、なんでこんなものがあるのだろう?って考えたら、俺には新しいルームメイトがいたんだった。勝手に飲んじゃって悪かったかな?まあ、いいや。それは結構美味しい。それを飲んで、そのあとはワインを飲むことにした。俺は強い酒が好きだから、ビールはほとんど買わないし、ワインもあんまり飲まない。買って来ても、コルクを抜くまで数カ月かかったりする。今日はそれを飲んでみた。色を見ていたかった。赤ワインの色。少し濁った濃い赤。俺の頭の中に色の世界が広がる。子供の頃は文章を書くのが得意だった。それから色の感覚が鋭い、って図画の先生に言われて、でも絵を描くのは上手いとは言えず、小学生らしい色を塗りたくった抽象のような物より進歩はしなかった。ピアノは3才の時からやっている。そっちも才能があると言われたけれども、文章を書いたり、画用紙に色を塗りたくったりするように、自由にできたとは思えない。今でも音楽を奏でる時、どこか余分な脳の部分を使っているような気がして、罪悪感にかられる。今でも文章や色を塗ることなら、脳を使わなくてもできる。自由に。このワインの色。色は色だけで感動できるけれども、他の色との配色で泣けることもある。そして色がお互いに混じりあった時、ほんとの奇跡が始まる。そんなようなことをワインを飲みながら考える。キッチンの椅子に座って、動かず、なにも食べず、純粋にこの赤のことを考える。人間に生まれたからこの赤が認識できるけど、さっきの蝶や小鳥はどうだろう?もしかしたらもっと綺麗な色を認識しているのかもしれない。 時計を見たら、11時だった。俺はそれが朝の11時なのか、夜の11時なのか考えたけど分からないのでカーテンを開けてみた。そしたらそれは朝の11時だった。今日は土曜日なんだろうか?日曜日なんだろうか?そっちの方が時間より難しい。考えても分からないけど、別にどっちでもかまわないって思ったから調べることはしなかった。俺が酒を飲むのは楽しむためじゃないし、味わうためじゃないし、純粋に脳に影響していくのを感じたいため。まだボトルにワインが半分以上残っている。この赤が俺の口から身体に流し込まれて、血管を走って、脳に届く。だからウツが治らないって医者が言う。ウツの脳。酒が覚めるとウツがやって来る。どういうシステムなのかは知らないけど。ウツになると俺は色んな面白いことを考える。でも大抵はなにも考えてない。考えてる時は、当然、死、というこを考える。死にたい、という人の気持ちが分かる。自分にもそういう時代があった。ボトルが半分になって、ほぼ脳の働きが停止した。しびれている感じ。悪い感覚ではない。自分が自分に関係なくて、自分が他人に思える。なぜか頭に変なことが横切る。ピアノをハンマーでぶち壊した?ピアノに対してそんなに破壊的な人間が世の中にいるとは知らなかった。車を買おうか、新しいピアノを買おうか考えて、やっぱりピアノを買うことにした。まだローンが丸2年残っている。あんな人間をここに置いて大丈夫なのだろうか?なんて言ってた?愛憎のもつれ?愛憎がもつれないようにしないと、大変なことになる。あまり美形だと、性欲がわかない。まあ、いざとなったら知らないけど。若過ぎるしな。まあ、それもいざとなったら知らないけど。ユリ、って名前がいいな。俺がアメリカに住んでた時、ロシア人のユリが1番静かなルームメイトだった。いるのかいないのか分からない。歴代のルームメイトは、うるさいし、掃除はしないし、男だか女だかを連れ込むし。ユリは毎朝早く出かけて、見るとベッドはいつも完璧にベッドメーキングされていた。 なにを考えてたっけ?ああ、ウツのこと。死、ということを考える。俺が病院で知り合った患者は、ネコがいるうちは死ねない、と言っていた。だからいつもネコを飼ってるらしい。俺にとってネコに該当する物はなんだろう?ピアノか。面白くもなんともないな。ピアノのローンがなくなってピアノが自分の物になるまで死ねない?やたらにローンにこだわるな。別に払うのがそんなに大変なわけじゃない。でもその前に破壊されるんじゃたまらんな。なんでそこにこだわるのか?さっきから人のことを考えている。珍しいことに。俺がバーで助けてやって、なぜか家に住んでいる。助けたカメ?竜宮城に連れて行ってくれるのかな?今日はそれを忘れずに聞いてみよう。愛憎のもつれ。愛が転じて憎になる。ワインを半分飲んで、キャビネットにしまった。今晩か明日、ウツになって面白いことを色々考えよう。時々急に世の中の色が変わって、現実が非現実に変わる。地層が割れて、ずれたみたいになって、そこに非現実が出現する。持っている薬を全部数えたら、多分死ねる分くらいあった。その時はまだ新しいピアノがなかったし、もちろんネコもいなかったから、生きてる理由もさしてなかった。自殺未遂をして、医者に本気で怒鳴られて、俺も悔しかったから怒鳴り返したけど。その時、あの医者が俺の担当の間は死ねないなって思った。今でも同じ医者だけど。ウオッカに抗うつ剤を溶かして飲む。ついでに抗不安剤も入れる。綺麗なベイビーブルーになる。もうひとつ入れたらもっと青っぽくなる。そこに黄色い抗精神病薬を入れると、ペパーミント色になる。それを一気に飲み干す。いつもの子供だまし。もっと早く時間が経てばいいな。そしたらもっと早く死ねる。人生の時間。 玄関が開いて、人が入って来る。俺はまだキッチンにいる。心臓が少し早くなる。薬のせいか、彼のせいか、それは分からない。もう1回さっきのミックスをやってみよう。今度は倍の量を入れよう。そしたら俺の心臓の理由が分かる。他になにか入れる物はないかな?こないだ飛行機に乗った時の酔い止め。頭痛薬。精神安定剤。どれもただの白。つまんないな。それにさっきの赤ワインを入れる。ペパーミントグリーンと暗い赤が混じって変な紫色になる。ちょっと舐めてみたら、意外とウオッカの味しかしない。脳が酔ってるからかも知れない。若者が俺の側を通る。蝶の羽ばたく音。小鳥の囀る声。 「なにその紫の?」 「プロザック。」 「え?」 「冗談。」 俺は一気にその紫色の物を飲み干す。俺の脳はそこを頂点として、どんどん下へ落ちて行く。 「ほら、今日の仕事。見て。」 俺にケータイを見せてくれる。ファッション雑誌。女の子とツーショット。海辺と風と太陽。俺はそれを見て微笑む。幸せな若者は自分のことに夢中で、何枚かある写真を色々説明してくれる。手がしびれてきたような気がして、俺は両方の手のひらを見る。 「手、どうかしたの?」 「癖だから。」 「変な癖。」 家に人がいるのは奇妙な感じ。この子は邪魔にならないからいいけど。必要以上に俺のことを詮索したりはしない。外国慣れしてるから?頂点から下へ落ちて、なぜか俺はそこに郷愁を感じる。何度も通った道。坂道。俺は人生の間で、山の上から都会のネオンを見る度に、なんとも言えない郷愁を感じていた。ある時どういう機会か、幼稚園に入る前に住んでた家に行った。そこに丘があって都会のネオンが広がっていた。そんな体験は世界中どこにでも誰にでもあるけど。 「俺のビール飲んだ。」 「ゴメン。」 「なんか食べる?」 「今はいい。」 「モーツアルト?」 「今はいい。」 「なんで?」 「今は泣きたくない。」 泣くという行為が1番体力を消耗させる。モーツアルトのソナタって、10分くらいかな?そんなに泣いたら死んでしまう。若者は俺の飲んでたグラスを嗅いで、 「昼間から飲んでる。」 「週末しか飲まないよ。」 金曜の夜に飲み始めて、日曜の夜まで。そうするとあとの2、3日は沈んだ気持ちになれる。そうなると、人生の無意味さに人生の意味が生れる。なにこれ?矛盾?逆説でもないし。意味がないという意味が生れる。俺は本気でそう思ってる。ピアノを教えるのはイヤじゃない。大学で実技もやるけど、講義もする。みんなに俺のピアノの中に住んでる、蝶と小鳥の話しをしてあげよう。音色の大切さ。フレーズにハーモニーに、その他諸々。目の前にトマトとチキンのパスタが出てくる。パルメザンチーズがたっぷり。俺はつい、一生懸命食べる。 「よく食べたね。」 「ありがとう。」 「ひとり分もふたり分も同じだから。」 俺達はほとんど同時にベッドに入った。 「なんでキングサイズなの?」 「いつかホテルで手違いで。で、いいな、って。」 電気を消しても、彼の身体からプラスの光が漏れてくる。 「まぶしくて眠れない。」 「なに?」 「君から光線が出てる。」 「じゃあ消すから。」 「ありがとう。」 「どうしてそういうことが起こるか分かる?」 「さあ?」 「貴方にとって俺は生身の人間じゃないから。」 「浜辺で助けたカメだから。」 「そうだったんだ。」 「いつ竜宮城に連れてってくれるの?」 「俺は人間だから。カメから進化を遂げるから。」 彼は広大なキングサイズベッドの端っこから、こっちまでやって来て、俺の唇に優しくキスした。 月曜日大学でずっとそのキスのことを考えてた。人生の無意味の意味について考える予定が。授業で蝶と小鳥の話しをしたら、クラスの女性が何人か泣いていた。俺に告った生徒が来て、 「いいお話しでした。進士先生。」 俺はなんだか清々しい気分になって、その生徒とそのままランチに行った。やっと生徒の名前を思い出した。賢生。 「先生、ちゃんと食べてるんですか?」 「最近ルームメイトができて。」 「怪しい。」 「そういうんじゃないけど、料理が得意で。」 「どんなヤツですか?」 「ハーフでファッションモデル。」 「マジですか?」 「人間扱いしてくれない、って文句言われた。」 「そりゃ、そんなイケメンじゃあ。」 「そう。」 「どうやって知り合ったんですか?」 「バーで人に頼まれて。」 「名前なんていうんですか?」 「ユリ。」 賢生はケータイで検索して、 「あー、これは美形だ。髪長いし。身長185㎝だって。表紙とかもやってますね。ほら、広告とかも。」 俺は見たことないから、一緒に見る。 「これなんて、女の服着て女のブランドの広告。今って変な時代なんですよね。」 「ほんとだ。」 「中性的な魅力。ユリなんて日本じゃ女の子の名前ですもんね。でもこの人、明るくて健康的だからいいですよ。」 「この人がさっきの蝶々の人だよ。」 「ほんとに?でもこの人なら分かる。」 「そう?」 「俺、安心しました。でも先生のことは、俺まだ諦めてないんで。」 「ユリとはなにもないよ。」 「俺、男の言うことは基本的に信じません。」 「男と愛憎のもつれで、ソイツのピアノ、ハンマーでぶち壊したらしい。」 「あ、だから付き合いたくないんだ。」 「まだ2年もローンがあるから。」 「激しい部分もあるんですね、その人。美しい人からは美しい音色が生れるんですって。」 「誰がそんなこと?」 「忘れたけど。でもほんとにそうだと思います。その人のピアノ聴いてみたいな。俺、聴きに行ってもいいですか?」 「でも愛憎がもつれないようにしないと。」 「先生ね、俺こうやって普通に話してますけど、内心は穏やかじゃないです。」 「なんで?」 「この人、先生のこと好きですよ。」 「まさか。」 「俺には分かる。」 「言ったかどうか忘れたけど・・・」 「なんですか?」 「確かこの大学、先生と生徒は付き合えないんじゃ?」 「そんなことね、なんとでもなります。俺、少なくとも3組知ってますよ、そういうの。」 「マジで?」 「気にしませんよ、そんなの。特に男同士なんて。それに先生、どうせ人の演奏聴いてないから、えこひいきしようもないし。」 「意味が分からない。」 「俺にも分からない。」 「俺と付き合って、なにがしたいの?」 「普通のこと。色んなこと。」 「なんで?」 「なに考えてるか分からないから、なに考えてるか知りたい。」 「大したこと考えてないし。」 「でもああいう蝶々がどうのとか、小鳥がどうのとか。」 「あれはほんとの話しだから。」 「でも先生、ほんとに信じてるんでしょ?先生のピアノにそういうのが住みついてるって。」 「捜してはいるけど。」 「ほら。そういうとこ。どこを捜してるんですか?」 「ピアノの中にいないってことは、そこらで遊び回ってるんだろう?でも小鳥の羽1枚見当たらない。不思議なんだ。聞いたんだけど、アマゾンにいる巨大な蝶は、飛ぶ時に鳥の羽ばたくような音がするんだって。今日、授業で言い忘れたけど、ユリのピアノを聴いていたらそんなことも思い出した。」 「先生、やっぱり相当彼に興味持ってますよ。」 「それは困る。」 「先生ね、愛と憎しみ、というのは必ずひとつのセットになってるものなんです。」 「じゃあ、俺、どうすればいいの?」 「その人を追い出して、俺と付き合う。」 俺はたっぷり30秒間黙って固まる。彼は席を立って、 「分かってました。」 と言い残して去って行く。その30秒の間に思い浮かべたのは、身体から眩しく発光してて、眠れなくて、そしたらカメから人間に進化するって宣言してて、それからあのキスのこと。 家に帰った。今日は子供の生徒が2人来た。5年生と6年生。男の子と女の子。俺も同じ教則本使って練習したけど、その頃、自分がなにを考えて練習していたのか、全く記憶にない。機械的に楽譜に合わせて指を動かしていた。女の子達が、発表会で着るドレスについて話してたのを覚えてる。発表会について、俺がなにもエキサイトしてなかったことは覚えている。今、俺の家に来てピアノを習ってる子達に、なにかもっと素敵なものを伝えたい、と初めてそう思った。子供に教えているのは、姿勢とか、指の動かし方、ペダルの使い方、そういう基礎を教えて、子供が伸びていくことに興味があるからで、感性を教える、ということについては特に野心はなかった。感性を教えたい。なんで?それはどっから来たの?暗いキッチンに電気をつけて、冷蔵庫を開けると大きなノート用紙に、「カレーを作ったから食べてね。仕事で遅くなるからね。Yuri」 鍋のカレーを温めて、ご飯の上にかける。確かに冷蔵庫に書いておいたのは賢い方法。じゃないときっと食べなかった。カレーを食べて、なんとなく部屋部屋を見て回る。玄関には見慣れない靴やジャケットがあって、バスルームには顔につけるんだか髪につけるんだか、わけの分からないローション類とかがある。俺はPCに向かってユリのプロフィールを見ていた。身長?それは知ってる。25才?もっとずっと若いと思ってた。日本生まれでカナダ育ち?じゃあ、ピアノを習ったのもぶっ壊したのもカナダなんだ。多分。今までの仕事。へー、ファッションショーとかもたくさんやってる。ユリは俺が彼にこんなに関心を示していることを嬉しがるだろうか?ブログがある。今日はカツカレーを作った。カツなんてなかったよな?自分だけ食べたのかな?ズルいな。ピアノを弾いている動画。俺のスタインウェイ。道具箱のハンマーを隠しておいた方がいいかな?モーツアルトのソナタ11番、第1楽章。彼らしい曲。ピアノの開いた蓋から何十匹も蝶々が飛び出してくる。信じられないくらい、たくさんの魅惑的な色達。ピアノの周りを飛び回って、キャーキャー言ってる。キャーキャー?そのうち1匹がカメラの前に立ち止まって、中をのぞく。それは蝶の羽の生えた小さな妖精だった。巻き毛でキューピーみたいな身体。まだそこらに隠れているに違いない。きっと彼の使ってる部屋にいる。でも俺は人の部屋には入りたくない。まあ、ほんとは俺の部屋だけど。でも彼が帰って来るのを待つことにした。妖精ってなにを食べるんだろう?蝶々だから、砂糖水?キッチンに行って、砂糖の入った入れ物を見てみたけど、特に変わった様子はない。美しい人は美しい音を出す、って賢生が言ってたな。美しい音を出すのはいいけど、その度に変な生き物を作出している。ユリは結局俺の寝る時間まで帰って来なくて、俺はさきにキングサイズに寝て、時々やるようにベッドの側のライトで本を読んでいた。それは19世紀の絵画に現れたキューピッドの話しで、それが俺の持ってる本の中で1番妖精に近いものだった。天使にも蝶の羽をつけたものがいる。どうなるとああなるんだろう?鳥の羽が普通だろう?ユリの帰って来る音がした。そしたら俺のベッドの下辺りから小さい女の子のクシャミの音がした。あんな所に隠れてる。その瞬間俺は眠りに落ちた。 朝起きたら、彼の方が先に起きてて、 「カレー残ってるから食べていいよ。」 「ありがとう。」 彼は俺が食べてるのを嬉しそうに見ている。 「君の動画を観た。ピアノのヤツ。」 「観てくれたの?感激だな。どういう風の吹き回し?」 「まあ。」 「ブログ読んだ?」 「カツカレーのとこと、その動画だけ。」 「ゴメンね。スーパーでカツ1枚しか残ってなくて。でもその代わりお肉いっぱい入ってるでしょう?」 「うん。」 「あのブログ、俺のプライベートがたくさん載ってるから。俺が時々女の子になるとか。」 「え?」 「読んでみて。」 「それより君がピアノを弾くたびに、変な生物を製造してくれるから。」 「なに?どんなもの?」 「あの動画でピアノから妖精がたくさん出て来て。」 「ふーん。」 「夕べ1匹ベッドの下にいた。」 「へー。」 「蝶々の羽がついてるヤツ。君の部屋にもいるんなら、ちゃんと砂糖水をあげて。」 「分かった。調べてみる。」 「でもいるのは確実だから、砂糖水あげといて。」 「分かった。」 その日は大学が午後からで、朝小さい子がレッスンに来る。小学1年生。お母さんがもっと小っちゃい子を連れている。ユリがその子を上手にあやしてくれる。 「なん才ですかー?」 「4さーい。」 「お兄ちゃんみたいにピアノ習うの?」 「バレエやってる。」 「いいな。踊ってみて。」 その女の子、全然恥ずかしがらないで踊ってくれる。クルクル回った時、小っちゃい妖精が飛んで来る。そしたらお兄ちゃんの弾いてるピアノからも妖精が飛んで来る。ユリが女の子に、 「ほら、君が踊ると背中に蝶々の羽が見えるよ。」 「ほんとう?」 「うん。とっても可愛い。ピンクの蝶々。青い星がついてる。」 「ほんとに飛べるの?」 「きっとそう。」

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