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第122話 女スパイの涙
【フェリス】
レヴィンの紹介状を持ってリゴット砦のユリエルを訪ねたフェリスは、案外簡単に謁見の間に通された。現在は強制的な停戦ということで人の数はそれほど多くない。通り過ぎる兵の話では、この期に国内へと戻る事を許されたらしい。
なるほど、王族にしては良心的な人物だ。人としての温かみを感じなくはない。無能とも聞いていない。何よりあのレヴィンが主を自ら定めた。そうさせるほどの人物はどんなものか、フェリスは楽しみだった。
謁見の間に入ったフェリスは丁寧に、かつ優雅に礼をした。玉座に座る人の側に、いかにも重臣っぽい人が二人。屈強な方が噂に聞くグリフィス将軍、そしてもう片方が知将と聞くクレメンスだろう。
ぶしつけに見ることは良くない。第一印象は大事にしなければならない。歩み寄り、十分な距離を取って跪く。そして恭しく名を告げた。
「お初にお目にかかりますわ、陛下。私、フェリス・ラムレイと申します」
「顔を上げなさい」
低くも高くもない、だが綺麗な響きのある声だ。その声には固さはなく、柔らかく温かなものがある。それでも不思議なのが、従わなければならないという王の空気だろう。
ゆっくりと優美に顔を上げたフェリスは、目の前のユリエルに一瞬驚き、見入ってしまう。
多少顔のいい男はいる。極上品でもこんなに見る事はない。だが目の前のユリエルは本当に美しい。長く流れる銀糸の髪は輝き、ジェードの瞳は深く柔らかく、だが威厳がある。整った顔立ちには優しさも、厳格さも備えている。この男を前に見惚れぬ者はいるだろうか。まさに、天使が舞い降りたようだった。
だがそこはプロのプライドだ。すぐにいつもの優美な笑みを浮かべ、ニッコリと微笑む事ができた。
「レヴィンとシリルがお世話になりました。レヴィンの紹介状によりますと、手を貸していただけるとありますが?」
「情報収集と潜入調査については、レヴィンからもお墨付きを頂いておりますわ。私の能力に不安がおありでしたら、一つ小さな仕事でもお任せ下さいませ」
「随分と自信があるんだな」
ユリエルの側で警戒した顔をしているクレメンスが言う。だがフェリスは一切動揺もせず、優雅な微笑みを浮かべる。
これでも諜報の仕事で今まで生きてきた。どんな場所にも入り込む自信がある。
だがユリエルが発した言葉は、フェリスには意外なものだった。
「その必要はありません。貴方の能力を疑う事はしません。今は思い当たる仕事もありませんので、この砦に留まってください。部屋を用意しましょう」
「陛下!」
事態を静観していたグリフィスが慌てたように声を上げる。だがそれも、ユリエルは一つ手を上げるだけで制した。
「グリフィス、警戒は無用です」
「なぜです!」
「彼女はプロですから」
やりとりを注視するフェリスは、その言葉に笑みを深くする。彼は分かっている。能力の確かさも、プロとしての自信も。
だが彼は知らない。心に暗い影を落とす憎しみの心を。悲しみの心を。それらを覆い隠す為に、張り付いたような笑みがあることを。
「後日、貴方には働いてもらいます。その時にはお願いします」
「えぇ、よろしくお願いいたしますわ」
誘惑的に微笑んだフェリスは、その心に僅かな闇を浮かべていた。
その夜、フェリスは一人誰にも気取られることもなく砦の中を進んでいた。
本当なら誰も、側近であるグリフィスやクレメンス以外は近づけないはずの王の寝室へと向かうためだった。
案外手薄だ。
見張りはそう多くない。国に帰しているから、兵の数自体が少ないのだろう。王自身もかなりの騎士と聞くが、あの細く綺麗な青年に何が出来るのかと思う。ただならない気配は確かに一瞬あった。だが武人としてはどうなのか分からない。レヴィンの言葉も疑っていた。
何より警戒心が足りない。よく知らない人物をこうも簡単に内にいれるなんて、危険極まりない行為だ。
扉の前に来て、誰もいないことを確認して隣の部屋に入る。そこは現在もぬけの殻。以前はシリルが使っていた部屋だ。
そこを通り、窓から外へ。暗い室内を確認して、ベッドから遠い窓から侵入した。既に眠っている、そう思って。
暗い部屋の窓には、鍵などかかっていなかった。けれどその代わり、明らかな存在感と視線がフェリスの呼吸さえも止める鋭さを持って見ていた。
「来る頃だと思っていましたよ、フェリス」
「…分かるものかしら」
ユリエルは暗い部屋の中で、待ち構えるように椅子に座っていた。腰には剣をさしている。
なるほど、日中とは雰囲気が一変した。明らかに危険で、痛いくらいの気配を感じた。彼が美しいと称されるのは、この危険な雰囲気も合わせてなのかもしれない。
ゆっくりと立ち上がったユリエルが、部屋に明かりをつける。明るくなった途端に数人の人が駆け込んできて捕らえられるものと覚悟したが、そうではなかった。部屋には誰もなく、気配もなかった。
「お一人かしら?」
「えぇ。立ち入った話に、他人は邪魔でしかありませんからね。貴方は私に用があるのでしょ?」
「…危険と、お思いになりませんの?」
普通の人間は、こんな得体の知れない者が侵入すればまず冷静ではいられなくなる。自分の部屋に入られたというだけで、人は狼狽するものなのだ。
けれどユリエルは堂々とフェリスに席を勧める。そして自分はのんびりとお茶を淹れ始めた。
「いるでしょ?」
「えぇ。私、王様の淹れたお茶なんて飲んだことがないわ」
「そうでしょうね」
これは世話役の仕事だ。王様は玉座にふんぞり返って書類の上だけで世界を見て、現実のひどさから目をそらしている。そう、フェリスは思っていた。けれど実際の彼を見て、それは違うのかと思った。
温かい湯気を上げるカップを二つ持って、ユリエルは本当に近くに座る。その距離にも驚いた。どれだけ信頼を示そうというのか。その姿勢には信頼などを超えた危うさを感じる。
けれど決して警戒心をなくしたわけではない。それを証拠に、彼は剣を手放さず、今も銀のスプーンで砂糖も入れていない紅茶をクルクルとかき回している。
「随分と慎重ですのね」
「既に何本かダメにしていますからね。性懲りも無くやるのですから、ご苦労なことです」
と、いうことは既に何度か毒殺の危険があったということか。銀は毒によく反応する。
「さて、フェリス。聞いてもいいですか?」
「えぇ」
温かいお茶を一口飲み、ユリエルは柔らかく微笑む。それに気を許してはいけないのだが、ついつい話したくなる。
フェリスはお茶を一口飲み、その美味しさに驚く。付け焼き刃ではなく、平時より彼がお茶を自分で淹れている証拠だ。
「シリルとレヴィンは、元気ですか?」
「えぇ。二人とも傷は負いましたが、命に別状はなく、回復すれば問題ありませんわ」
そう告げると、ユリエルは明らかにほっとした笑みを見せる。綻ぶように柔らかく、安堵した笑みだ。この笑みが弟であるシリルだけではなく、レヴィンにも向けられているのは気のせいではないだろう。
情がある人だ。レヴィンが言っていた意味が分かる。鋭さが消えればこんなにも、愛情のある人なんだ。
だからこそ聞きたい。自分が何者かこの人は知っているのか。レヴィンが何者か、この人は知っているのか。
「陛下、貴方は私やレヴィンが何者か、ご存じかしら?」
聞きたかったことをフェリスは問いかけた。追求する、責めるような瞳で。でも仕方がない。それほどに、国がしたことは非情だったのだ。
ユリエルはカップを置いて深く頷く。深い色を称えたジェードの瞳が、真っ直ぐにフェリスを見て頷く。
「貴方たち天使を国が生み出し、使い捨てのように消したことは知っています。それについて憎いというならば、私はその憎しみを受けねばなりません」
「そうね」
そんな事をしても、この人を殺したり、傷つけたりすることで何かが変わる事はない。心の傷が消える事はない。けれどあまりにあっさりと認めた事には驚いた。もっと否定したり、言い訳するかと思った。
「否定しないのね」
「城から抹消された貴方たちを、私まで否定しては貴方たちの存在は?」
「元々、私たちの存在なんて無いようなものですわ」
「国の罪は消えません。忌むべきものでも、過ちでも。それを償わずに隠す事は、その為に犠牲になった人々への裏切りです。王自らがそれを推奨し、行っては、その国は先が見えていますよ」
「国の罪を、貴方は認めると?」
ユリエルは静かに頷いた。
だからと言って失った命も、傷ついた心も元には戻らない。けれど存在まで消されてしまった者達の無念はいつか、この王の下で浄化されるだろうと思う。どんな形かは分からないが、何かしらの形で。
「購うことしか出来ませんがね。手始めに、孤児を引き取り初めています」
「孤児の引き取り?」
フェリスの表情が途端に険しくなった。刺すような殺気を向けてしまう。
孤児として引き取られ、転がり落ちたのがフェリスであり、レヴィンだ。それを理解して、本当に温かな手を差し伸べているというならば確かに救済だ。人の優しさと温かさを求めて死んでいった子供達への、何よりの供養だ。
けれど、信じられない。自分と同じような人間が増えるのでは。そう疑ってしまう。
「また、同じ事を繰り返すの?」
「本当に、救済です。それと、投資ですかね。教会で孤児を引き取り、養育と勉学を任せています。子供一人につき、国から費用をだしてね。多くの子供達と温かな食卓を囲み、教育をし、ある程度の年齢になれば独立を促すように。彼らは今後の国を動かす力です。彼らが健やかに育てば、それは国を支え動かす何よりの財産。それを思えば、今の出費は安いと考えています。飾ったり自慢するしかない王宮の宝飾や絵画よりも、よほど価値がありますね」
やんわりと微笑むユリエルをフェリスは凝視し、その後で涙が出そうだ。
こういう人があの当時王であったならば、きっと自分たちは幸せだっただろう。闇に手を染め、消えぬ傷を負い、未来を悲観することもなかった。
「動き出したばかりですから、正しい運用が成されているかを定期的に見なければなりませんが。それに、私には敵が多い。目先の金が好きな者からしたら、私は理解できない厄介者。その為、こうした危険な綱渡りは常ですね」
暗殺は常に権力者の上にある問題。しかも国民にとってよき王というのは、その手も執拗だ。
この人の側にとレヴィンが言った理由は分かった。この人を守れと、言うのだろう。この人が、病んだこの国には必要なんだ。
「貴方たちには、私が詫びたところで全てが遅い。だからせめて、今が幸せであれと願うばかりです。なんて、レヴィンの気持ちを利用して無茶を命じている私が言えた事ではありませんが」
「全部を知りながら、あいつに大事な弟君を任せるなんて。随分思い切った事をなさいますね」
一番と言われた暗殺者の手に、大事な弟を知ってて任せるなんて。絶対に何も起こらないと確信しているのか。その読みは意外と当たっているが、そうだとしたら酷い行いだ。
けれどユリエルは柔らかく微笑むばかりだ。
「レヴィンにとっても、シリルにとっても互いは必要な存在です。別に何事も起こらないなんて、思っていません。二人が納得しての事なら、認めると伝えています。ただ、駆け落ちだけはこちらが捜索し、罪に問わねばならないからやめろと」
「大事な弟が男の、しかも暗殺者の恋人になってもよいと仰るの?」
「大事なものを見失った結婚よりは、賛同します。それにシリルがいる間は、レヴィンは死ねない。あの子を残して死ぬ事はないと、信じています」
意外なくらいに深いユリエルの思いを見た気がした。フェリスの顔に自然と、嬉しそうな笑みが浮かぶ。
なんて情の深い主か。なんて、優しい人なのか。こんな薄汚い人間以下の扱いしか受けてこなかった者に、こんなにも夢を見せてくれるなんて。
「兵器にも、夢は見られるのかしら」
「人が兵器になることはありません。どれだけ心が死んでゆこうと、消え去る事などないのだから。人は夢を見られます。温もりを愛し、人を愛する。故に脆く、故に強いのです」
「いいこと言うのね。案外詩人なのね」
「私は武人ではなく詩人でありたいと思っていますよ。王であるよりも、真に願うならば持たぬ詩人となりたい」
そう言って少し遠くを見たユリエルを見て、フェリスは思う。この人はきっと、誰かを思ってそう言っていると。切なく悲しく、でも微笑む姿はこの上も無く色気があるのだ。
「フェリス、貴方に人を殺せとは命じません。ただ、ここにいる私はあまりに視野がききません」
「素敵な義賊を飼っておいでではなくて?」
「あれはシリルにつけました。私よりも彼らの方がよほど危険ですから。何よりシリルは一度決めると頑固で敵を作りやすいのに、自己防衛は覚えたばかり。レヴィンだけでは辛いでしょうから」
「それで、私には貴方の目となり耳となれと、そういうことかしら?」
「お願いできますか?」
考える素振りだけで、フェリスが断る理由はない。ほんの少しこうして話しただけでも、ユリエルという人物の人となりは分かった。十分に信用に足る人物だし、仕えるに足る主だ。
それでもやっぱり少し意地悪になる。優雅な笑みを浮かべたフェリスは探るようにユリエルを見た。
「報酬はどうしますの?」
「庭付きの小さな教会などはいかがです? 聖母を祭る」
フェリスは目を大きく見開き、席を立った。
どこまで知っているのか分からない。そのくらいこの人は過去と人の心を知っている。これ以上広い目や耳など必要ないと思えるくらいだ。フェリスの夢を、この人は知っていた。
「そこに花を植えて、身寄りのない子を引き取って、助けを求める人の声をきく。慈しみ、子供を守る聖母に祈り、安らかな日々を送る。それが貴方の夢だと、レヴィンからの別便の手紙に書いてありました。貴方のしてくれることに対する報酬には、あまりにささやかですが」
「…十分、高価な報酬だわ」
フェリスはユリエルの足元に膝を折る。願うなら、もっと早く巡り会いたかった。そうすればもっと、この人を好きになれたのに。人の心を知り、願いを知り、それを利用する悪魔。けれどその根底に優しさがあるならば、悪魔でも魔王でもかまいはしなかった。
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