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第1話

由良(ゆら)は持ち部屋を出て、中庭に面する池を眺めていた。月の影が落ちて、ゆらゆらと揺れている。榊屋(さかきや)という陰間茶屋は、今日も賑わいをみせ、酒に酔って騒ぐもの、色を交える者、それぞれが金で買った一夜に興じている。 由良も陰間としての寝屋を終え、先ほど一人の客を見送ったばかりだった。 「また、身請けの話を断ったんだって?」 通りがかりに、金剛の藤吾(とうご)が声をかけてくる。その姿を認めて由良は顔を強張らせた。藤吾は由良を裏切った男。そして、心の内では誰よりも恋慕ってきた男。 「散る花の玉響(たまゆら)としては、真剣に身の振り方を考えた方がいいんじゃないのか?こんないい話、最後になるかもしれないぞ」 「貴方には関係のないことでしょう」 由良は言い放つ。 今までにも身請けの話は何度かあった。だが、由良は受けなかった。その理由は藤吾の側を離れたくなかったから。 見世の者同士の恋は御法度で、禁じられている。だから、叶うはずもない想い。なれど、密かに想いを寄せるのは、自由にならない由良の唯一の自由だ。 十一の歳でこの見世に売られ、十二の歳で陰間となって客を取り始めてから、早くも八年の月日が流れた。 見世での名は玉響(たまゆら)というが、誠の名は由良(ゆら)という。ゆえに藤吾からは由良と呼ばれていた。 藤吾は由良の金剛だった。金剛とは陰間と呼ばれる色子の身の回りの世話をしたり、主には客を取るために、菊座の拡張を指南するいわば陰間の従者だ。 由良を指南し、陰間としてお客をとれるように仕上げたのも藤吾だった。そして、八年もの間、影になり日向になり、由良を支えて来たのも藤吾だった。故に二人は、確かな絆と信頼で結ばれていた。と思うのは、由良だけの思い過ごしだったのだろうか? 初めは色を売る陰間に抵抗があり、藤吾の指南も、到底受け入れられるものではなかった。 けれど、この見世でしか生きる術は残されていないと悟った時、由良の中に陰間として生きる覚悟が生まれた。 藤吾が腕利きの金剛だったことも大きく、由良が玉響(たまゆら)として花開くのに、そう時を要しなかった。 しかし、齢が十八から二十になると呼ばれる「散る花」の頃になって、由良の全盛に翳りが見え始める。見世でも一位二位を争う看板だった由良が、下の者に追い抜かれ始めたのは、一年前、藤吾が由良の金剛を降りたのと同じ時期だった。 藤吾が由良の金剛でなくなったことに、由良は激しく気落ちし、藤吾への裏切りを感じていた。 それが拍車をかけたのか、由良を指名していた馴染みの客は、だんだんと若い陰間へと乗り換えていった。 時が移ろうのは、致し方ないことではあると思う。陰間の花は短い。男を客に取るのではなく、いずれは女を相手に春を売るようになる。 だが、由良は女が極端に苦手だった。 幼い頃に両親を亡くした由良を引きとったのは、叔母だった。叔母には酷い扱いを受けたばかりか、幼い由良に夜枷の真似事をさせた。女の醜悪さを散々見てきたばかりか、叔母は由良に飽きると、この榊屋へ由良を売り飛ばした。 以来、女には嫌悪感しか感じない。 散る花になって女の客を取れないとあらば、本気で身の振り方を考えなければならないのはわかっている。 身請け話を断れる身でないことも。 先ほども見世の主人である榊から、こんこんと説教を食らったばかりだった。 「お前、女の相手が出来ないんだろ?なら、なおさら……」 「貴方には関係のないこと。今しがた、申し上げたばかりでしょう」 以前、男客が女客を連れてきて、由良を交えて乱交に及ぼうとしたことがあった。由良には女の相手をさせようとしたのだろうが、由良の男根は役に立たず、えらく不況と怒りを買ったのだった。 藤吾はその時のことを覚えているのだろう。 「その櫛、まだ付けているんだな」 埒があかないと思ったのか、藤吾が話題を変えてきた。 もう何年も前だったか、藤吾に呉服屋の前で買ってもらった櫛だった。それ以来、ずっと大切にしてきた想いでのある櫛だ。 今となっては想いでばかりが胸を占め、心苦しい。自分だけが、藤吾に想いを寄せるようで。 由良は藤吾から顔を背けると、藤吾の前から立ち去った。 見世の主人である(さかき)から言い渡されたのは、橘屋(たちばなや)という料亭に出向いてある客の相手をして欲しいということだった。橘屋も表向きには料亭ではあるが、この榊屋と同じ二階は売春宿になっていた。 くれぐれも粗相がないように。榊からはそれをきつく言い渡された。 その日になると、藤吾が見世の入口で支度をして待っていた。 由良は驚いて目を丸くする。 「永吉は具合が悪いんだとよ。橘屋には俺が一緒に行く」 永吉とは、藤吾に代わる由良の新しい金剛だった。永吉には悪いが、由良はほっとする。悪い男ではないが、藤吾と比べてしまうと、どうしても金剛としての腕は劣るし、気もきかない。また、永吉も意のままに振る舞う玉響(たまゆら)をもて余していた。 布団を袋に入れて背に担ぐ藤吾の後を、由良は編笠の端を両手で押さえながら、ゆったりとした足取りでついていく。 布団を担いでも、藤吾の背中は真っ直ぐなままだ。こうやって、別の見世に出かけるのは、久方ぶりだ。以前は何度か他の見世に呼び出され、藤吾と共に向かった。まだ、自分にあどけなさの残る頃であろうか?藤吾の背を追うように付いていったのが懐かしく思い出され、胸が締めつけられるように切なくなった。 気がつくと、呉服屋の前に差しかかっていた。店の前には見事な造作の美しい櫛が並んでいる。 そういえば、以前もこの呉服屋で、藤吾に櫛を買ってもらったのだった。 藤吾が足を止めて振り返る。 「買ってやる。好きなものを選べ」 「え?」 「いいから」 いいからと言われても、急には戸惑う。店の前に並んでいるということは、土産用なのかもしれないが、それでも由良には高価そうに思えた。どれも美しくて目移りするし、藤吾に買ってもらっていいものか迷いつつ見ていると。 はっと目を奪われるような櫛を見つけて目をとめる。黒塗りに大きく美しい曼珠沙華があしらってある。その上には、金で縁取られた黒蝶。 いつぞやの秋、藤吾と共に出かけた折り、真っ赤に咲き誇る曼珠沙華に戯れる黒蝶の姿を見つけ、赤と黒の織り成す色彩の美しさに目を奪われたことがあった。 その櫛はその時のことを思い出させてくれた。 「決まったようだな」 藤吾はその櫛を手に取ると、呉服屋の中へ入って行く。程なくして出て来ると、由良の結い髪へと、買ってきたばかりの櫛を挿してくれた。 「よく似合う」 客にはさんざん容姿を褒められていても、藤吾に言われると照れくさい。由良ははにかんだように笑う。 「ありがとう」 短く礼を言うと、藤吾も笑みを溢した。 再び歩きだした藤吾の後をまた付いていく。 夕闇が迫る中、由良が幸せな時を噛みしめた刹那だった。 橘屋に着き、客の待つ二階へと上がる。 「失礼致しまする」 まずは藤吾が膝をつき、襖を開ける。その背が心なしか強張ったように由良には思えた。 由良も続いて部屋に入り、まずは三指をついて深々と頭をたれる。 「玉響(たまゆら)にございまする。今宵はよろしゅうお願い致しまする」 挨拶を終え、面を上げた由良の前には、いかにも気の強そうな面持ちの奥方が座っていた。 由良の顔から笑みが消える。女客が相手と知り、急に体が強張り、指先から冷たくなっていくようだった。 青ざめた由良の顔を、藤吾は心配そうに窺うが、運んだ布団を降ろし、褥の支度を整えると、無言のまま部屋を出て、襖を閉めた。 「あんたがあの有名な玉響(たまゆら)かい?今日は楽しみにしてきたんだよ」 見世の売れっ子を指名するのではなく、齢二十を迎えた自分が呼ばれたのは、このためであったのか。 玉響という陰間の名前は、世間に知られているが、由良が女の相手が苦手だということは知られてはいない。それどころか、散る花とあり、じきに女の客を取るのではないかと噂ばかりが先行し、由良の評判を聞きつけた後家の奥方などが、勝手に期待を膨らましているようだった。この奥方もその内の一人なのだろう。 由良はその場に固まったまま、動けなくなってしまった。 そんな由良に、女は苛立ったように命じる。 「何をしてるんだい?さっさとこっちに来るんだよ」 そう言われておずおずと女の方へ近づいていくが、それからまたどうしたらいいかがわからない。由良の様子に気づいた女は、値踏みするような目で由良を見てきた。 「あんた、女は初めてかい?」 「……はい」 由良は戸惑いながら答える。 「なら、私が教えてあげるよ」 女は殊更ねっとりとした笑みを浮かべて由良を見た。 女の手淫にも口淫にも、由良の男根は反応しない。女体を触らそうものなら、由良は拒絶さえみせた。女は焦れて強硬へと及ぶ。 手持ちの黒塗りの箱から、薬を取り出すと、由良の萎えたままの男根に塗りつけた。 「……っ」 ピリピリした刺激に、由良の男根はわずかながらも頭をもたげた。 「これは長命丸っていうんだよ。男を長持ちさせる薬の一種さ。これなら、さすがにあんたの逸物も使い物になるだろ?」 褥に横になり、女の股へと導かれるも、いざ、女の中に挿入しようとすると、由良の男根は萎えて硬度を保つどころではなかった。それどころか、女体への恐怖が出始めてどうしようもなくなっている。長命丸を竿に塗りつけられて、興奮もしているはずなのに。何度か試みるも失敗し、女がついに我慢の限界を迎えて、由良を罵倒し始めた。 「女相手じゃ勃ちもしないのかい?女に恥をかかすんじゃないよ!あんたを買うために、いくら払ったと思ってるんだい?」 言いながら、女は何度も由良の頬を打ち据える。女の力とはいえ、憎しみを込めて何度も打たれれば、由良の頬は赤く腫れ、唇は切れて血が滲んだ。 由良はされるがままになっていた。 それでも、怒りの治まらない女は、持ってきた黒塗りの漆の箱から張形を取り出した。その禍々しさに由良はぎょっとする。女は由良を強い力で突き飛ばした。 着物の裾を捲りあげ、張形の先端を由良の菊座にあてがった。 「あっ……何を……!?」 問う間もなく、硬く閉じた菊座をめりめりと押し開いて、張形が潜り込んでくる。 「ああぁぁ……ッ」 堪えきれずに悲鳴が洩れた。畳に爪を立てて痛みを遣り過ごす。裂けた菊座が血の玉を作り、張形を縁取るように赤く滲んだ。 痛みであろうとも、陰間として仕込まれた性なのか、菊座を暴かれる刺激に体は反応するらしい。由良の男根は白濁を放った。 「浅ましい。血を流しながらもこんなもので達するんだね!あんたにはその格好が似合いだよ」 侮蔑の言葉を吐き捨て、女はひどく憤慨した様子のまま、部屋から出て行った。 部屋のすぐ外で待機していた藤吾にも、女は怒りをぶつけている。荒々しい足音が遠ざかり、入れ違いに藤吾が部屋に入ってくる。 「おい、大丈夫か?」 「藤吾……」 由良はほっとしたように藤吾を見上げた。 由良の菊座に張形が突き刺さったままなのを見て、藤吾は絶句する。 由良のすぐ側に座すと、張形に手をかけた。 「抜くぞ」 菊座の傷を広げないように、ゆっくりと慎重に抜いていく。 「()っ……ッぅ……」 「ひでぇことしやがる」 抜き終わると、藤吾は由良の体を抱きかかえ、強く抱き締めた。 「よく耐えたな」 ひと度客と向かい合えば、頼れるものは己の技量のみ。誰も助けてはくれない。泣き言など通用しない。陰間として生きてきて八年。身に染みてわかっている。 だが、口惜しさは拭えなかった。 「榊様は今日のことを知っていらしたのですか?」 榊は、今日の客が女の客だと知っていて向かわせたのだろうか? 男相手なら慣れていて、大抵のことは対処できる。いや、榊は試したのだろうか?由良を試した上で、女の相手ができなければ、見切りをつけると? ということであれば、もはや何を申しても無駄なのか。 「さぁ?それは俺も知らん。俺は知らされてなかったがな」 知っていれば、由良を来させはしなかった。 気位が高くて、人に弱味を見せるのを嫌う。藤吾もこんなに気落ちする由良を見るのは、記憶にないくらい久方ぶりで辛かった。 「藤吾、重くないですか?布団もあるでしょう?」 藤吾に横抱きに抱えられたまま、榊屋へと戻る帰り道。 「大事ねぇよ」 こんな時だというのに、藤吾の体温を布越しに感じて、由良の体の熱も上がるようだった。 「はぁっ……あっ……」 由良は熱を帯びた息を吐く。 女には発揮されなかった薬の効能も、藤吾相手には容易いのか。皮肉なものだ。 「辛いか?」 藤吾が気づいて聞いてきた。 由良はこくんと頷く。 藤吾は花街の街道を逸れ、脇道へと入った。しばらく歩いてたどり着いたのは、廃寺のようだった。 「たまに一人になりたい時に来るんだ。誰も来やしねぇ。安心しろ」 御堂の中に入ると、埃とも黴ともつかない臭いがした。由良は静かに降ろされた。 今宵は満月。月の明かりで堂の中は思いの外明るかった。 「あまり清潔とは言えねぇが、こんな時だ。我慢しろよ」 藤吾は布団を広げ、手早く床を作ると、由良を再び抱き抱え、その上に横たえた。 藤吾の手が着物の裾を割って入ってくる。由良の竿に直に触れ、握り込むと、上下に扱く。 「ああっ……」 瞬く間に由良は達した。 そうやって、幾度か精を吐き出した。だが、体の芯を焦がす熱は、前の刺激だけでは足りない。傷ついているというのに、快感に疼く菊座を、熱いもので満たして欲しかった。 藤吾の逞しい二の腕にすがり、いつもなら決して言わぬであろう言葉で藤吾にねだる。 「……藤吾。藤吾が、欲しゅうございます」 「欲しいって、お前。痛めてるだろう」 「構いませぬ」 例え見世に戻っても、女の客を取れなければ、追い出されるは時間の問題。そうなれば、藤吾とも離ればなれになる。二度と逢うことは叶わなくなるやもしれない。 「藤吾を……好いておりまする。心から、慕っておりまする。貴方だけを……」 想いが思わす口を突いて出た。 藤吾が驚いて目を見開き、次いで破顔する。 「敵わねぇな、お前には。……俺も、お前に惚れちまってる。もう、ずいぶんと長いことな……」 今度は由良が目を見開く番だった。額にひとつ口づけを落とされる。次に唇に。口づけが深くなる。 どんなに客に乞われても、口吸いは極力許してこなかった。不意に奪われたりはもちろんある。だが、自ら進んでしたことはない。口吸いは本当に愛しい者とだけ……。そう決めてきた。 陰間と金剛。禁じられた間柄の恋情。見世の者同士の恋は御法度。実ることも報われることもない。そう思っていた。 身に余る幸せとは、こういうことをいうのだろうか? 由良の目から知らず涙が溢れた。その涙すら、藤吾の口づけが吸いとっていった。 藤吾の男根が菊座に圧し当てられる。 「本当にいいのか?」 藤吾が心配そうに聞いてくる。橘屋で傷の手当てに薬を塗り込んだ時も、今しがた潤滑剤を菊座に塗り込めた時も、由良は息をつめていた。痛むのだろう。 「はい」 由良はこくりと頷いた。 ずっと求めてきた肌と熱が今ここにある。 藤吾の熱量で、菊座の内壁を灼いてほしい。そう思った。 今まで幾人の相手をしてきたのか、もはや覚えてはいない。だが、誰と寝ても本気で熱くなることはなかった。熱くなれたとすれば、それは相手を藤吾にすり替えての錯覚だった。 「あっ、ああぁっ……!」 それでも藤吾の男根が潜り込んできた時、やはり菊座には痛みがあった。 洩らすまいと思っていたのに、不覚にも声が洩れる。だが、耐えられぬほどの痛みではない。それよりも、愛しい者とひとつになれたことの喜びが凌駕していた。 「辛くないか?」 男根を根元まで埋め込んで、藤吾は一旦由良の様子を窺う。 由良は首を横に振る。 菊座は早くも藤吾の男根を誘うように締めつけている。 藤吾がゆっくりと抽送を始めた。 「あっ、んっ、ふうっ、んんっ、ああっ……」 こうして体を交えるのは久方ぶりでも、藤吾は由良を絶頂へと導く場所を、忘れてはいなかった。 「気持ち、いいか?」 藤吾に揺さぶられながら、由良は頷く。 客相手に先に気を遣るのは、負けた気がして屈辱でしかない。快楽に溺れたふりをしてやり過ごすこともしばしばだった。 だが、藤吾になら、快感をもって陥落させられたい。もとより、十一のまだ子どもだった頃に藤吾の指南を受け、藤吾によって快楽を教え込まれた体だ。 「ああぁ……ッ……」 あっという間に由良は昇りつめた。しかし、藤吾は達してはいない。 金剛は陰間の中に射精してはならない。藤吾はどんな時もその掟を忠実に守ってきた。 由良は陰間として、快感に抗う術もやり過ごす術も身につけてきた。だが、床を終えたあと、稀に体の芯に熱がこもることがあった。客を取り始めた頃は、もて余した快感の苦しさを、藤吾の手や指で処理されていた。 二度か三度、客に薬を盛られた時には、藤吾の男根を直に菊座に受け入れたこともある。 そんな時にも、藤吾が由良の中で達することはなかった。 「藤吾の熱を、熱い迸りを。私の中にくださいませ」 暗に二人で()きたい。そう訴えてみる。 肉体はいずれ別れを迎えたとしても、魂は離れたくない。決して離れないよう、この体に刻みつけて欲しい。 藤吾がやさしく微笑む。 「お前の菊座の締めつけに耐えるのは、鍛えた俺でも至難の技だ。今も堪えるのに必死だった。でも、もう堪えなくていいんだな」 藤吾が再び律動を始める。慈しみを込めた抽送は快感を引き出し、絶頂の高みへと追い上げていく。 「お前をずっと俺だけのものにしてぇ。そう思ってきた。何度、客に嫉妬したか」 「ふふっ。私もです。貴方が若い子を指南するたび、何度、嫉妬に狂いそうだったか」 交わす想いもまた同じ。 陰間と金剛という縛られた関係を超越し。互いに思慕を寄せる情人となって。 二人は初めて同時に昇りつめた。 夜が明け始め、山の稜線は白みつつあった。 由良と藤吾は外に出て、階段に腰を降ろして月を見ていた。弥生の終わりの風は、まだ冷たい。掛け布団を簑にしてくるまれば、互いの体温で暖かい。 月は何も語らず、ただ静かに白光を投げかけるだけだ。由良と藤吾も何も語らず、互いの想いに耽っていた。 その時だった。 「藤吾、見て。星が流れる」 由良が空を指差した。 ひとつだけではない。広大な空をまたぐように、幾つもの流れ星が暗空をわたり横切る。 「まるで、星のしずくみたい」 幾数の星たちは胸を貫いて流れるようで。痛い。痛くもあるが美しい。生命の灯火。世の移ろい。儚さ。そういったものが流れる様を見ているようだ。 「綺麗」 由良の瞳から自然と涙が溢れた。 「ああ、綺麗だな」 無数の流れ星を見て、ある者は不吉というかもしれない。天変地異の前触れとも。 藤吾も素直に綺麗だと思った。それを目にして涙を流す由良にも。改めて間近で見る由良を美しいと思った。それと同時に、藤吾はやるせない思いに蝕まれる。 遊女よりもずっと短い期間で春を売る陰間。その悲惨ともいえる末路を、金剛である藤吾は数えきれないくらい見てきた。見世を追い出され、路頭に迷うもの。行き倒れる者。夜鷹となり悪質な条件で体を売る者。性病に侵され死を待つ者。 ずっと堪えてきたじゃねぇか。耐え忍んで来たじゃねぇか。それなのに。 陰間としての由良の誇り。昨夜の出来事はそれを挫く仕打ちに思えて、藤吾はぎりぎりと歯噛みをするような憤りを感じずには居られなかった。 この度のことで、女の客を取れない由良が、近く見世から追い出されるのは、決定したように思えた。 由良の幸せを思えば、身請け話をもっと強く勧めてやるべきだったかもしれない。だが、由良と二度と逢うことは叶わない。そう思えば腰がひけた。 遠くへ行くな。想いは交わせなくとも、側にいろと……。 由良の金剛をやめたのには理由があった。由良に代わる新しい見世の看板を育てること。その上で、勤めを終えた由良を貰い受けできないか。そう榊に進言するつもりだった。 だが、それも必ずしも功を成すとは限らない。それならば。 「このまま二人で足抜けするか?」 「え?」 思ってもみなかった言葉に、由良は驚いて藤吾の顔を見る。 足抜けが見つかり、追っ手に捕まれば、金剛は死罪に。陰間も酷い折檻を受ける。それが死に至ることも。 「このまま運よく逃げられても、贅沢な暮らしはさせてやれねぇ。それでも、来るか?」 「藤吾はよいのですか?」 「ああ」 「それならば、構いませぬ」 迷いはなく、由良はきっぱりと言い切った。 もとより、見世を追い出されれば、一人で生きていく当てなどない。 ならば、一緒に。束の間のことかもしれない。心許せる愛しくかけがえのない者と。共に生きてゆきたい。 「ただ、誓え。何があっても、生きることを諦めるな。俺も決して諦めたりしない」 「はい。誓いまする」 由良は右の小指を差し出した。藤吾がそれに左の小指を力強く絡める。 指切りは愛しい者たちが交わす誓い。決して破られぬ約束。 榊屋の追っ手に二人が捕らえられたのは、その二日後のことだった。 二人は引き離され、由良は牢へと閉じ込められた。 食事も与えられず、体を縛られて、水をはった樽の中に顔を浸けられる。 気を失えば、平手打ちで起こされ、再び顔を水の中へ。 もう何日続いているのかわからなくなっている。いつ終わるともわからない攻め苦。 『藤吾は関係ありませぬ。罰するなら、私だけにしてください。どうか、お願いです。榊様。藤吾を殺さないで!』 散々、榊に訴えたが、足抜けは重罪。榊が耳を貸すことはなかった。 「藤吾……」 髪の毛を掴まれ、仕置き人に顔を水からあげられる。 由良の唇から、無意識に藤吾の名が溢れる。 「諦めろ。奴は死んだ」 仕置き人は無情にも言い放つ。その声は気を失いかけた由良の耳にも、しかと届いた。 「そんな……嘘……」 藤吾が死んだ。 心が絶望の淵へと突き落とされる。 「人の心配より、自分の心配をしたらどうだ?」 再び水に浸けられる。 息ができず、溺れる苦しみも、藤吾を失った喪失と、絶望に等しい深い悲しみに比べたら何ともなかった。 藤吾を想うなら、あの時、足抜けするべきではなかった。自分を救いたいと思ったに違いない藤吾の優しさに縋った。後悔だけが胸を占める。いや、一夜の儚い夢のような時なれど、あの夜、確かに幸せだった 藤吾の側にいきたい。 肉体から魂を切り離し、死しても側に。魂だけは共に添い遂げたい。 藤吾――。 その時だった。意識を手離しかけた由良の頭の中に、藤吾の声がこだましたのは。それは由良の全身へと響いた。 『何があっても、生きることを諦めるな』 そうでしたね……藤吾。生きると誓ったのでしたね。たとえ、一人になったとしても。 指切りは破られぬ約束。誓い。愛しい者と交わした約束。 由良が解放されたのは、ほどなくしてからだった。由良は粗末な着物を着せられ、仕置き人らに抱えられ、花街の外れへと連れて来られた。 見世の主人である榊も一緒だった。 由良にしか聞こえない声で榊が告げる。 「廃寺へ行け。行けばわかる」 聞き返す間もなく、由良は強い力で突き飛され、地面に転がった。 榊たちが由良を一瞥して引き上げていく。 その背を見送り、由良は疲労した体を引き摺るように、ゆっくりと立ち上がった。 廃寺とは、二人が一夜を共にしたあの寺のことだろうか?あの時は藤吾に抱えられ、場所はおぼろげにしか覚えていない。 由良は迷いながら、記憶を頼りに歩みを進める。 どれくらい歩いただろうか?ふと、目の前をよぎった桜の花びらに誘われるように顔を上げる。その先に、見事な桜の木があった。桜の木の下には、淡紅の花びらが転がるように群れていた。そこに愛しい人の姿を見つける。 「藤吾っ、藤吾……!」 名を呼ぶ由良に藤吾も気づく。 「由良っ!」 互いに足を引き摺りながら、二人は近づき、生きていることを確かめるように、互いの体を強く抱きしめあう。 「藤吾は死んだと聞かされました」 「俺も一時は覚悟したけどな。榊さまの特別に特別な計らいだとよ」 二人が本当に想いあっていること。二人の今までの見世への貢献。藤吾は死んだことにし、二度と花街へは近づかないこと。それらを条件に榊はこっそり藤吾を逃がした。 見世にいるときは、いけ好かない主人だと思っていたのに。 生きて再び相まみえたことに、喜びと感謝しかない。 もう一度、二人は互いの体温を確かめあうように抱きあい、口づけを交わす。 二人の門出を祝福するように、桜の花びらが舞い散っていた。 -- 完 --

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