15 / 43

はるかわくんの やみ -5-

「どうしたの?」 「…そんな…、優しくしないでください。……俺、わかってますから。」  春川は、ぼくの指を握ったまま右の袖で涙を拭ったが、また新しい筋が出来てしまう。 「…昨日、俺が、冷水さんから…どんな目にあったか、…知ってますよね。」 「うん。」  昨日、春川はぼくの策略で冷水にレイプされた。  どのへんまでいったかは、ぼくからは見えてなかったのでわからない。  起きてすぐその話になるかと思っていたが、ぼくが少し油断したぐらいを突いて、春川はその話題に触れてきた。  冷水の心証が悪いのは、残念ながら予想どおり。  すると、沈痛な面持ちだった春川の顔に、今度は自虐的な笑みが作られていく。 (なんだ?) 「…冷水さんを止めてくれなかったのは、…俺なんかより、冷水さんのほうが、大事だからなんでしょう?」  そんな切り口で来るとは。  親指を強く握ったままなのは、ぼくの動揺を探るためか? 「そうだね。」  嘘は言わない。  春川はぼくが「たじろがない」ことに、たじろいだようだった。  無理に装った笑顔はすぐに消え、悲しげで強張った眼差しが再びペーストされる。 「じゃあ、どうして俺に、キスなんかしたんですか。」  春川はぼくの親指を、さらにぎゅっと握ってきた。 「春川がかわいかったから、したいと思って、した。」 「そんないい加減な気持ちでキスなんてしないでください。」  春川はかぶせるように、語気を強くして言った。 「うん。悪かったね。春川。」  春川の頬を伝った涙が、細いあごから数滴落ちた。 「…俺は、昨日、冷水さんに嫉妬しました。」 …嫉妬?  親指がだんだん痛くなってくる。  離してもらおうか、いや、今の春川に言うことじゃないな。もうしばらくなら我慢出来る。 「気付いたんです。店長のことが、   ……好きなんだって。」 「え?あ、()った」  しまった。  春川のこのひとことに、ぼくはかなり動揺してしまった。もちろん春川にも伝わっただろう。 …どうやらぼくもそうとう「鈍い」のらしい。  頭に浮かんだのは、冷水のこと。  まずい。  春川は冷水のものなのに、ぼくがその弊害になってしまっては、まずい。  春川はぼくの指を離した。  そしてうなだれて膝に顔を埋め、ついに声を殺して震え始めた。ときおり嗚咽が混じる。  春川の背に手を置くと、小柄な背中がびくんと震えた。 「冷水をけしかけたのは、ぼくだ。冷水は、きみのことをえらく気に入っていたから。」 「…そんなこと、今」  さえぎるように続ける。伝えておくべきだ。 「冷水があまりにつらそうだったから、せめて行為だけでもさせてあげようと思った。きみは起きないはずで、すべてを朝までに終えられれば、それで冷水が喜ぶだろうと考えて、ぼくが独断で計画したんだ。安易だったよ。冷水にも怒られた。」 「うそだ…やめてください…」 「だから、冷水を恨まないでもらいたいんだ。責めるんならぼくを」 「やめてください!」  春川は上を向いて、見えない目でぼくを睨んだ。 「ハル。きみには悪かったが、きみの言ったとおり、ぼくは冷水のことしか―」 「いやだ聞きたくない!」  突然春川はぼくの胸の中に飛び込んできた。  左手でぼくのセーターを引っ張るようにして伸び上がってきたので、ぐん、と顔が近づく。  春川は目を閉じ、形のいい鼻先でぼくの鼻を探りあてると、軽くこすり、そして…そのまま、くちびるをあわせてきた。  ミルクの匂い。  春川が舌を入れてくる。 …あたたかくてやわらかい舌を、でもぼくは、軽く、押し戻す。  春川はそれに気付いて、キスをやめた。  顔を離し、へたり、と膝を折ると、春川はまた軽くうつむいて、左手で頬の涙をぬぐった。  春川のさらさらした前髪が、泣くまいと息を殺すたびに揺れている。  その奥、長いまつげの下にある目は、子犬のようにうるうると震えていた。 …思わず、ぼうっと見とれてしまう。 「…俺じゃ、だめなんですか…?」 「え?」  春川は、また顔をあげた。  こらえきれない涙が、大きな目からいくつも下へこぼれ落ちていく。 「…店長。俺を、」  春川ははっきりと言った。 「だいてもらえませんか。」  ぼんやりしていて、その意味は一拍遅れて思考に届く。 …聞き間違いか?  春川は小刻みに震えつづける。  でも目は、何度かまばたきをしながらもまっすぐぼくを見ようとしている。  そんなことを言い出すなんて。 (どうしたんだ?春川。)  そういえばさっき舌がさわったとき、少し熱があったような気もする。  頭が混乱していて、微熱もあるせいで、正常な判断が出来ていないのかもしれない。 「…やっぱり、もう少し寝てたほうがいいね。」  春川の告白を聞き流して、軽い体を背中からすくい上げるようにしてそっと寝かす。  春川はぼくが背中に触った瞬間また体を震わせたが、ぼくがそのまま離れようとすると、今度はぼくにすがりつくように、細い両手を伸ばしてきた。  その腕をまたゆっくりと外し、春川の頭の横に置く。 「…うっ…」  春川の口から嗚咽が漏れて、鼻先にあたる。 ―― 俺じゃ、だめなんですか…?  そそられるけど、ぼくじゃだめだ。  そんな、無防備で無抵抗で、純粋できれいな今のきみは、守られてしかるべきなんだ。  ぼくじゃなく、冷水みたいな、いい人間に。 「……店長、俺を…助けてください……ッ」  春川は苦しそうに言った。  目の前にあるその顔は、今までに見たこともないほど美しい。  しかたなくぼくは、震えながらまだしがみついてこようとする両手首をつかまえて、春川の横に静かに倒れてみた。  春川と向かい合う形になる。 「助ける? …なにから?」 「俺を抱いてください…」  春川はまだ震えながら、嗚咽をこらえて、ぼくの問いかけには答えず再び言った。 「どうして?」  震えながら息を吐き出し、春川はつぶやくように言う。 「昨日みたいなのには…慣れてるんです、俺…。」  慣れてる?ああ、そうか。 (やっぱり初めてではないんだ。) …そして、気づいた。 (これが、春川の、「闇」なんだ。)  先ほどから震えているのは、自分のなかから溢れ出しそうな「闇」を、必死に抑えこもうとしているからなのかもしれない。 「慣れてるけど、…いやなんです、…ああいうのは…。」 「うん。」  春川は自分の闇をそれ以上ぼくに見せまいとしてか、言葉を選びながらゆっくりと話した。 「ずっと、思ってたんです。自分が好きになった人と、そういう関係がもてて、そこに、喜びを感じられたら……そしたら、今までの汚れきった俺の人生が、浄化できるんじゃないか、って……。…へんに思われるかもしれないですけど…。」 「別にへんには思わないよ。でも。」  春川が何を言いたいのか、だんだんとわかってきた。でも。 「ぼくに抱かれたからって、きみが救われるとは思えない。」  ぼくでは春川をますます汚してしまうだろう。 「…店長は、真逆なんです…。」 「真逆?なにと。」  春川は軽くくちびるを噛んで目を閉じた。  答えは言わなかったが、しかし、ぼくにはその反応で充分だった。  ああ、そうか。  完全にわかった。春川の闇の正体が。  頭のなかに、ある男の顔が浮かんだ。 (そうか、この子は。)  春川は目を開けると、今度は無理に、はは、と言って少し肩を揺らした。  そして突然、 「俺、冷水さんよりうまいと思いますよ。」 などと言いだした。  春川の口元の笑みは、ますます自虐的なものになっている。 …そんな、貼りつけただけの笑顔では、泣いているのか笑っているのかわからない。 (似合わないな。)  細い手首は、肩は、まだこんなに震えているくせに。 「なにをそんなに怯えてるの。」  春川はすこしうつむいた。 「…怯えてなんか、ないですけど、俺。」 「ぼくとの行為が怖いから怯えるし、そのせいできみは、ほら、今、やけまでおこしてる。」 「ちがいます!」  春川はむきになって、またぼくのほうを見た。 「俺は怯えてなんかいません。店長に抱いてもらいたいんです。――…震えが止まらないのは、…期待して、はやくヤりたいって喜んでるからじゃないですか、俺の体が。」  だめだ。どうしたんだ春川。  あまりに幼稚だし、そんなのはまったくきみらしくない。 …いや、そこまで言うんなら、こちらから春川の「闇」ににじり寄って、「そこ」をこじあけてみようか?  手の中にある春川の両手を思い切りひろげて、そのまま仰向けになった細い体の上に乗り、ベッドに押し付けた。  手を放してから、少し乱暴に春川の頭を抱え込む。 「は…」  すると春川は、今度はとっさに両手でぼくの体を押しのけようとする。  だが、かまわずにそのまま覆いかぶさり、かわいい口に舌を押し込む。  左手で春川の小さな頭を包んで固定し、同時に右手を寝間着の中に差し入れた。 「んっ…!」  ぼくの突然の豹変ぶりに、春川は目をきつく閉じて肌をあわだたせる。 (…どこが「喜んでる」、だよ。)  吸い付くような肌のうえを滑らせ、手を、春川の胸の上に置いた。  小さな動物のように鼓動が早い。  春川はぼくの指先が胸の突起を弄るたび小刻みに震えた。  目を固くつぶったまま、ぼくの舌を受け入れている。  その動きにも、ぎこちなさは否めない。 「んん!」  試しに胸に置いていた右手を下へと動かし、下着の中へするりと潜り込ませる。  すると春川は、ついに小さく悲鳴を上げ、反射的に自らの左手でぼくの手首を軽くつかんだ。  次にその手をあわてて離し、今度はその手で、肩に力が入るのがありありとわかるほど強くシーツを握りしめ始める。  彼の若い性器は、ぼくに対してすっかり萎縮してしまっているようだった。  右手で包み込むようにして先端を少し弄ると、春川はそれだけでのけぞりそうになり、舌を噛まれそうになる。  これほどの、「拒否反応」。 (…ほらね。)  春川の口から舌を出すと、春川は苦しそうに呼吸をしながら頭を横に倒した。  昨日は、クスリのせいで体が動かせず、さぞかしいやな思いをしたことだろう。 「うっ…」  舌先を頬に這わせると、細い体がさらに凍り付いていくのがわかる。 「…ハル。」  耳元でささやく。 「…きみは…、性的な虐待を受けていたんだね。」  春川は、はっとしてぼくのほうを向いた。

ともだちにシェアしよう!