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てんちょうたちのひみつ -5-

 おいしそうな匂いがして、とたんにまたお腹が鳴る。 (いいんだよな、俺が食べて。)  テーブルのうえに気を取られながらも、とりあえずベッドの横の木箱を探りに戻った。  引っ張り出すと、やっぱり服だった。  白いすべすべした生地の、たぶんパジャマだ。袖を通すと、昨日と同じ生地のパジャマだと気づいた。  これも「ゲスト用」で、替えが何着もあるんだろうか。 (そういえば昨日着てたパジャマはどこいったんだ?)  軽く布団をめくってみて、まあいいやと思う。  なにしろ、今は早く何かを口に入れたい。ソファの向こうを気にしながら急いで服を着た。  ソファとテーブルの周辺には、草色の、毛足の長い絨毯が敷かれていた。 (ワゴンの音が無音になったのは、この上に乗ったからか。)  あとから気づけば何でもないことばかりだな。  さっそくソファに、でも用心深く、腰掛ける。  料理はまだあたたかかった。  肉は口にいれたらめまいがするくらいおいしい。  厚切りハムみたいなトリ肉に甘酸っぱいソースがかかっていた。 (なんだこれ食べたことない!)  スープは透明な薄茶色で、なにか濃厚な肉の風味が鼻に抜けた。これも、すごくうまい…。  サラダには見たことない葉っぱや豆が入っていて、そのなかに、(これは知ってる。) 生ハムだ。  野菜がたくさん入っている卵焼きみたいなのもおいしい。  柔らかいパンと、なぜかご飯が一緒にあって、お腹が空いていたので両方食べた。  飲み物も二種類あって、ひとつはミネラルウォーターで、ペットボトルごと置いてあった。  もうひとつの、ガラス瓶のほうの白いやつが気になるので、そっちからコップに注いで一気に口に運ぶと、すごく渋い。(うえ。グレープフルーツだコレ。) 苦手だからそれからは水ばかり飲む。  夢中になって食べていて、皿がだいぶ空になってきたころに、「薬物混入」の可能性に気づいて、一瞬手が止まる。 (…まあいいや)  今ごろ気づいても、もう遅いし。 (ここまで贅沢をさせてくれたんだから、お礼はカラダで!)  なーんつって。(バカか俺は。) …なんだか満腹感でテンションが変に上がってるな。  結局、皿に残ったソースまでもを残ったパンにつけて食べきり、グレープフルーツジュース以外のすべての器が真っ白になった。 (ふぁあ~)  素晴らしい充足感!  上を見上げて深く呼吸する。 (…満足だ…)  でもこのままゴロゴロしていても申し訳ない気がして、すぐに立ち上がってキッチンまで皿を下げた。  グレープフルーツジュースは冷蔵庫に入れる。なかに昨日店長があたためてくれた牛乳もあった。  キッチンの流し台はスベスベした白い石。大理石だろうか。なんだかどこまでもセレブリティだ。  何かに布巾がかかっているので、めくると、色違いのマカロンが3つのった皿と、Wedgwoodの紅茶入りの缶と、ティーカップと小さなポットがある。デザートってこと?(入りますよ~まだ。)  IHに白いケトルがのっているので、水を入れて、電源をつけてお湯を沸かす。  ケトルを見つめながら考える。  夕ご飯も、このデザートも、ヒミズさんが用意してくれたものなんだろう。店長は、わりとおおざっぱだからな。  アンドーさんが言っていた「咲伯家に仕える執事」というのが、より現実味を帯びて感じられてくる。(でも「執事」がどんなかは、俺にはやっぱりよくわかってない。)  だけど、だからってヒミズさんが俺にとって怖いひとだということに変わりは無い。 …ますますヒミズさんのことがわからなくなってきている。  俺を犯した、あのひとたちみたいなヒミズさんと、こうして、食事やパジャマを用意してくれるヒミズさん…。  それとも、店長が言ったように、本当に店長の命令であんなことをしたんだろうか。  でもこの食事こそ、店長の命令で渋々用意してくれたものなのかもしれない。  人形のような顔をしたヒミズさんの、心のなかは、わからない。  お湯が沸いてきたので、まずポットとカップをあたためる。  紅茶の入れ方は、ヒミズさんに厳しく教えられた。 ―― 一回しか言わないからよく聞くように。  ヒミズさんは俺に対していつだって厳しかった。  店長が荷物を縛るのに何回失敗したって黙ってるのに、俺が失敗して、店長がヒミズさんを呼ぶと舌打ちされた。  店長もアンドーさんも、ヒミズさんが俺を嫌ってるっぽいことが、なんでわからないんだろう。  ポットとカップのお湯を捨てて、ポットの茶こしにスプーン山盛り一杯分の茶葉を入れ、カップにお湯をそそいでからポットに移す。  茶葉が開くのを待つ間に、チョコ色のマカロンをひとつつまんで口に入れ、(ん、うま)、部屋をウロウロしてみる。  まだ開けてないドアが2つあったので、ひとつ目を開けて覗くと、自動でふわっと電気がついた。  奥行きはそんなにないけど、対面の壁にでかいテレビ画面が据え付けられていて、その前にもソファがある。 (ここでテレビ見るの?) わざわざ? …あ、違う。そうか、ここ、ミニシアターだきっと。 (う~ん、セレブリティ。)  ドアを閉めて、もうひとつのドアを開けたら、がらんとして何もない。と、思ったら。 (俺の服!あ、荷物も!)  そこはクローゼットになっていた。  俺の服がもったいないくらい丁寧にハンガーにかけられている。  荷物に駆け寄って中を開けると、いつもと同じ、俺がぎゅうぎゅうに詰めたフリースが飛び出した。  手を入れて探ってみるが、別に中は変わりなかった。  店長たちを決して疑うわけじゃなかったが、俺にとっては大事なものが入っているのだ。  服はすでに洗われているのか、なんだかいい匂いになっていて、さわるとふかふかする。  すぐ上の棚に下着もたたんで置いてあった。  その横に俺の腕時計があって、取ってみると「PM 6:12」と表示されている。  やっと今の時間がわかった。  2月13日午後6時12分。引っ越しが12日、つまり昨日だったから、俺は昨日の夜からほとんど寝て過ごしていたことになる。 (どうりですっきり目が覚めたわけだあ)  部屋に戻って、紅茶をカップに入れ、立ったまま残りのマカロンを食べた。  抹茶色のマカロンには抹茶味のクリームの中に砕いたアーモンドが練り込まれてあって、これが意外と抹茶に合う。噛みしめるたびアーモンドが香ばしく弾けて、やばうま。  イチゴ色のやつには硬めで濃厚な生クリームと、甘いイチゴジャムが入っていた。イチゴの果肉がそのまま残っていて、噛むとプチプチし、そのあとにほどよい酸味が追いかけてくる。 「んん…」  これもたまらん。あと10個食べたい。  イチゴのマカロンを食べたあとに紅茶を飲むと、ロシアンティみたいな爽やかな風味が鼻に残った。俺が女子で、彼氏が紹介した店でこんなものを出されたら、確実に落ちる。  マカロンの余韻にため息を漏らしつつ、スポンジを泡立たせ、皿を洗うことにする。  今日はこのままここにいていいんだろうか?一応ホテルも取ってるんだけどな。  借りていた携帯電話も昨日返したし、ドアには鍵をかけてしまったし、今の俺には店長との連絡手段がない。  まあいいや。  「送るよ」 とかいって店長がノックしてくれたら、すぐに着替えて出て行ける。 …そしてそれで、今度こそ本当に店長とは…  頭を振る。  流しで洗った皿を、マカロンがかかっていた布巾で一枚一枚丁寧に拭いている最中に、…思い出した。 (あああ!!!)  ヤバい! (風呂のお湯、出しっぱなしだ!)  布巾を置いて皿を重ね、一目散にトイレへ向かう。  なかは湯気でしっとりしていて、ジャバジャバという水の音が響いていた。  あわてて左奥のバスタブに向かうと、案の定、あふれたお湯で、茶色い石のタイルの床が濡れ続けている。 (やってしまった…)  店長とヒミズさんに申し訳ないと思う気持ちでいっぱいになりながら、蛇口をひねってお湯を止める。  部屋に戻ろうとして、このまま風呂に入ろうかと思いとどまる。  たぶんこのお風呂も、ゲストルームにある以上は、共用ではないだろう。俺だけのためにお湯をはってくれたんだ、贅沢にも。 (…だったら、冷めないうちに入ったほうがいいよな。)  洗面台の棚からタオルを出そうとして、よく見ると2種類あって、ひとつはバスローブだった。 (バスローブなんて一般家庭にあるか普通!)  いや、店長のうちには、あるのか…。  着ていたパジャマを脱いでたたみなおし、置く場所がないので広い洗面台のすみっこに置く。  鏡を見ないように意識しながら移動して、まずシャワーを浴びた。  シャンプーを洗い流したあと、ボディソープを手に取り、スポンジが見当たらないので、手で泡立てて体をぬぐうようにして洗う。ボディソープは甘くていい匂いがした。  それにしてもやっぱりキスマークだらけだ。店長のか、アンドーさんのか。  泡だらけの指でさわっていて、ふと、左側の腰の下の火傷のあとに気づく。  アンドーさんに言われるまで忘れていた。 (……。)  あのひとのことを思い出しそうになって、いやいや、と頭を「切り替える」。  ざーっと急いで体を流してバスタブに向かった。  お湯があふれるのを横目に、後ろめたさを感じながら、肩まで沈んでみる。  最近ずっとネカフェのシャワーだったから、久しぶりのお風呂は「こんなにも気持ちいいものだったか~」 という感じで、思わず口から息がもれた。  足を伸ばしたら、どこまでも伸ばせるので、調子にのってうんと伸ばし続けていると、手が滑って頭まで沈んでしまった。 「ぷあ!」  慌てた。もう二度とすまい。  あふれるお湯の流れが止まったら、一気に静かになった。  水滴が落ちる音だけが、ときおり聞こえる。  上を見上げると、やっぱり鏡ばりだ。  なんで曇らないんだろう。そういう仕様の鏡があるんだろうな。  目を閉じる。  店長は父親の会社を継ぐために本当に遠くに行ってしまうんだろうか。  なら店はどうなるんだろう。  それとも最初から、飽きたらさっさと店をたたんでしまうつもりだったんだろうか。お客さんもせっかくたくさんついてるのに。   …店長は… (俺のことを、どう思ってるんだろう…)  もうあの店での契約は切れている。  アンドーさんは、店長が俺を気に入っていて、ここに住まわす気かも、と言っていた。  店長は、最初からあのひとのことを知っていて、俺をかくまってくれる気だったんだろうか。  …そして、気まぐれで俺を助けたあと、俺に飽きたらさっさと俺を捨ててしまうつもりなんだろうか…。 (いや、もしそうだとしても、それがなんだ。)  店長は、最初から俺には関係ない世界のひとだった。  それに俺は、明日からはもう、1人で生きていけるんだから。  考えとは裏腹に、なぜだか目頭がまた勝手に熱くなってきて、あわてて頭までお湯に浸かってみた。  初めて自分から好きになったひとに、抱いてもらえて、良かった。  それだけで十分だ。  たとえそのひとが、俺の知らない世界に生きていくひとでも。  …俺以外のひとのことを、大事に思っていたとしても。 (第3章 「てんちょうたちの ひみつ」 おわり)   → 第4章 「続 がんばれ!はるかわくん」 へつづく

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