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相席の男

「シゲさん、どう?」 「いいの撮れたよ。マキちゃんがすごく色っぽい。」 「あっはっは。最近腹が出てきて嫁さんにビール減らされてるって言ってたけどね。」 「還暦ならではの色気だよね。息子さんにもサックス教えてるんだっけ?」 「今はコンピューターに夢中だってさ、あー、今行くー!シゲさんまた後で!」 去っていくベーシストに手を振って、相席の男はカメラをテーブルに置いた。 フォークを取り上げ、皿のチキンを口に運ぶ。 グラスの形からして、飲んでいるのはノンアルコール。 いつもこのステージ端の席でカメラを構えてるのは、たぶん常連なら誰でも知っている。 初めて同じテーブルに座って気がついた、カメラにキラキラしたデコレーション。 「ん?このカメラ、カワイイでしょ。」 持ち上げて、キラキラを眺めて、 「昨夜仲間と呑んでる時にね、女の子に遊ばれたの。」 ゆったり笑って、グラスに口をつける。 ‥‥酒も飲むんだ。 それも、カメラを預けられるような女の子の家で。 「ねえ、いつも後ろの方の席にいるよね。」 「今日はあれですよ‥‥」 広くはない店内は二次会場を求めて入ってきた客でいっぱいだ。 「座る席が無かったのは初めてです。」 「ステージ前に座るのも初めて?結構音が違うでしょ。」 ‥‥今、男が笑顔を向けているのは、俺だ。 いつもステージに注がれているやわらかい笑顔。 染めている髪、目尻のほくろ、薄いえくぼ、薄い唇。 思っていたより年齢が近いかもしれない。 「ん?着いてた?」 親指と人差し指で口の周りをなぞり、俺に向かって小さく首をかしげる。 「いや、思っていたよりも歳が近いのかなって。」 会話をしている。 ステージに近くて客からは遠い人が、俺と。 「えー、なんだろう、会話が成立していないよー。」 くすくす笑って、グラスに手を伸ばす。 滑らかな、長い指。 「えっ、成立していないですか、」 口に含まれた液体が喉を動かすのを、見逃してしまった。 折角、こんなに近くに居られるのに。 「ジャズ、好き?」 「あ、ええ。インターネットで聴いてます。お好きなんですか?」 「聴くだけだけどね。店でも流してるし。」 「お店、なさってるんですか?」 「うん。婦人服の店。ここの商店街の、花屋の隣。」 「ああ!オレンジ色の扉の!」 「そうそう。」 女性が行く店、か。 「店長さんなんですか?」 「うん。一人でやってる店。」 「‥‥遊びに行ってみようかな。」 「いいね、こんないい男が店の中にいたらお客がたくさん来そうだ。」 「ジャズを聴きに行くんですよ。」 「じゃあ店に来たら、何かCD貸してあげるよ。」 レタスを口に運ぶ途中、零れかけたドレッシングを口が迎えに行く。 唇に収まりきらなかったドレッシングを、赤い舌が嘗め取った。 きまり悪そうに小さく笑う。 「零すところだった。」 「ここのドレッシング、美味しいですよね。」 「ね。僕も料理が出来たら、こういうの作れるようになるのかな。」 「料理はなさらないんですか?」 「しないねー。食べることにあんまり興味がないから。」 「作ってくれる人も張り合いないですね。」 「いないよ、作ってくれる人も、一緒に食べてくれる人も。」 ブロッコリーをフォークで刺す。 「君にはいるの?」 刺した手をそのまま止めて。 俺を見る、悪戯そうな笑み。 初めて見る表情。 「‥‥いないです。」 「そう。」 そのままフォークを皿に置いた。 空けた手でカメラを取り上げ、俺に向けて構える。 「なんですか?」 「いい顔。」 「良くなんかないですよ。よくある顔です。」 「色っぽかったよ?」 それは、貴方の写真の腕でしょう? メンバーのブログに載る写真は、どれも男の色気に溢れている。 ヴォーカルの女性も確かに綺麗に撮るけれど、男性の美しさは格別だ。 だから。 こっち側の人だと思ったのに。 「‥‥色っぽいっていうなら今日のルミさんの黒いドレスでしょう。」 「そうだね、ルミさんにあのドレスはとても似合ってる。」 カメラを置いて、ブロッコリーを口に運んだ。 「イヤリングもあのドレスの為に下ろしたんだって。」 女性の事、よく見てるんだ‥‥。 「2セット目が始まるね。」 フォークを置く。 カメラを構える。 貴方から目を離さなければならない。 ‥‥演奏が始まってしまった。 曲は、But Beautiful。 もし貴方が俺のものならば、決して放しはしないのに。 ステージから顔を背けて目をつむった。 こんな機会に二度目は無いだろう。 叶わないのが恋、慣れている。 曲が終わって客席から拍手が起こる。 目を上げればギタリストがこちらを見ていた。 隣のカメラマンに目を移せば、ギタリストにウィンクで応えているところ。 きっといい写真が撮れたんだ。 3曲目。4曲目。インスト代わりのドラムソロ。 メンバーが楽器を置いてステージを一旦降りる。 ふうっと俺の胸から出たのはため息だろうか‥‥ 「ねえ。」 「え?」 振り向けば目の前に出されたのはカメラの液晶モニター。 「やっぱり色っぽいよ。」 目を閉じた俺の顔。 「なに撮ってるんですか、」 「なにって、今日のベストショット。」 満足気にカメラを置いて、スタッフにドリンクの追加を頼んでいる。 貴方が俺を見てくれていた。 そう思うだけで胸の奥がむずむずする。 ‥‥錯覚かもしれない。でも。 貴方の目が俺を捉える。 貴方の声が俺に注がれる。 自惚れますよ。 貴方のカメラに収まる価値が俺にある、なんて。 こんな機会に二度目は無いだろう。 悲しくても苦しくても、それでも恋が美しいものならば。 「‥‥今度二人で会いませんか?その写真、ゆっくり見せてください。」 「二人で?」 「ええ。食事でも、酒でも、‥‥ドライブでも。」 「二人で、か‥‥」 黙ってしまった。 駄目、だったか。 ‥‥そんなものだろう。 チキンを食う。レタスを食う。ブロッコリーを食う。 今は、同じ味。同じ音楽。同じ時間。 来月の俺は後ろの席に座って、ステージだけを見るのだろう。 ‥‥いや、やっぱりこのテーブルに目が向くんだろうな。 ベーシストがやってくる。 カメラマンと笑いあっている。 液晶モニターを見せられて、ベーシストがカメラマンを小突く。 カメラマンが笑う。 やわらかく。 視界の隅で起きている光景を、少しでも心に刻んでおこう。 ステージにメンバーが集まりだした。 3セット目が始まるんだ。 「ねえ。」 カメラマンに呼ばれて振り返る。 「僕にはね、男に誘われる趣味はないんだ。」 音楽が鳴り始める。 黙って頷いて、ステージの方を向いた。 やわらかい笑顔が好きだった。 カメラを外した瞬間の満足そうな顔が好きだった。 フォークを口に運ぶ時の首の角度が好きだった。 メンバーにどんなに近くても鼻に掛けない、出しゃばらない。 スタッフにも腰が低くて、必ず言うありがとうの言葉。 店内の対角線に座って、ずっと見ていたんだ。 髪をかきあげる指で、俺の頬を撫でてくれたなら。 If you were mine I’d never let you go 音が、振動が、体に響く。 ‥‥夢を見たんだ。 ステージにこんなに近い席は初めてだから。 客席から拍手が起きて、3セット目が終わったことを知る。 今月は、これでおしまい。 後ろで、客が席を立つ椅子の音とスタッフの動き出す気配。 ステージではメンバーが楽器の片づけを始めている。 店を出よう。 椅子から立ち上がる。 と、腕を掴まれた。 反射的に振り返れば、カメラマンが俺を見つめている。 「僕は男に誘われるのは趣味じゃない。」 それは分かったから。 「僕からね、誘いたい方なんだ。ねえ、二人だけで会おうか。」 え‥‥ 「二人だけで‥‥」 腕を引かれもう一度椅子に座る。 俺から離れた手は、テーブルに肘をつき緩く組まれた。 「僕の車でドライブでもしない?水族館に行こうか。リニューアルが終わったらしいよ。」 もうやわらかくない笑み、目に獣の光。 「ジャズ流しながらさ。バラードが好きなんだよね?」 「え?‥‥なんで、」 「切ない恋の歌の時に限って目を閉じてる。いつもね。」 スタッフを呼び止める。 「コマさん閉店までまだあるよね、彼のワイン新しくしてくれる?あと僕にも同じのを。」 「なんで知って‥‥」 「コマさん今日はありがとうね。ほら、団体客をさ、後ろから埋めてくれたでしょ?」 「王子の為なら何でもしますよ。ワイン、お待ちください。」 「なあ、シゲさん久々の傑作だって、見てやれよ。」 振り返ればベーシストとギタリストがやにさがって並んでいる。 「邪魔しないでよ、いま口説いてるんだから。」 組んだ指の人差し指が立ち上がって、眉間に軽く、皺。 ギタリストがベーシストの腕を引っ張る。 「ほら、練習日にゆーっくり見せてもらおうってば。ね、シゲさん。」 未練気なベーシストを連れて、ギタリストが手を振りながら去っていく。 「独りで来て、独りでジャズ聴いて、独りで帰っていく‥‥」 ‥‥そういえば、この人は俺がいつも店の後ろの方の席に座るって知っていた‥‥ 「気になっていたんだ。ずっと。」 スタッフが来て、俺のワインを交換する。 「っ、ありがとうございます。」 「その仕草、やっぱり好きだな。ねえ、グラス持って。」 言われるままグラスを持つ。 顔を上げると彼と目が合った。 吸い込まれて歪む、視界。 「切なくない恋に、乾杯。」 俺のグラスと彼のグラスが触れる。 帰り支度にざわめく店内で。 何かが弾けた音が、澄んで、広がった。 fin.

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